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第45話 エステルという変数

マハトラがエリンを連れて部屋を出ると、そこには魔王とエステルだけが残った。


(まったく……大した胆力だ)


魔王は、半ば呆れ、半ば感心しながら、心の内でそう呟いた。


同じヴァンパイア一族なのだから、多少なりとも交渉の余地はあるのではないか。

相手の要求を和らげ、波風を立てずに収める道もあるのではないか――そう考えていた。


だが、実際に起きたことは、その予想をあまりにも鮮やかに裏切っていた。


領地の割譲。

そして、莫大な金銭の要求。


それだけなら、無理難題を吹っかけているだけだと切り捨てることもできたはずだ。

だがエステルは、そこにライカン・スロープという明確な“梃子”を差し込んだ。


しかも、その一連の文書はすべて魔王妃名義。

表向き、これは魔王とは切り離された案件であり、自分はただ静かに腕を組み、結果だけを受け取ればいい立場に置かれていた。


対してヴァンパイア一族は、拒絶しがたい場所へと追い詰められていた。


ライカン・スロープ一族との平和協定。

そして、魔王の婚姻によって成立した三者間の均衡。


それが崩れれば、彼らはこれまで手にしてきた利益を吐き出さねばならなくなるかもしれない。

いや、それだけでは済まない。

下手をすれば、そのまま戦火へとなだれ込む可能性すらあった。


こんな状況で戦争だと?


――ライカン・スロープなら、やる。


魔王はそう確信していた。


蜂の巣をつつくどころではない。

最も触れてはならぬ場所へ、真正面から火を投げ込んだようなものだった。


「ヴァンパイア一族は、受け入れるしかありません」


そう言い切る妻の姿には、微塵の迷いもなかった。


本当に、こんな手を打ってよかったのか。

魔王の胸にあるのは、ただその一点だった。


それなのに、エステルはまっすぐにこちらを見つめていた。

その瞳は、不安どころか、星でも映しているかのように明るく、きらきらと光っていた。


つい先ほど見た、エリンの目とよく似ていた。


――どう?

――ちゃんとやったでしょう?

――褒めてくれる?


そんなふうに、声もなく訴えているようだった。


「はは……」


不意に、笑みが漏れた。


ここ数年、こんなふうに自然に笑ったことがあっただろうか。

気づけば、自分でも驚くほど肩の力が抜けていた。


「……?」


エステルが、きょとんとした顔でこちらを見上げる。

いきなり笑い出したのだから、無理もない。


「変わったな」


魔王は、しみじみと呟いた。


かつての彼女は、天空の海に席を作らせ、ただひたすら故郷の村の方角を見つめ続けていた。

この城にいても、心だけは常に遠い高山に置き去りにしているような女だった。


だが今は違う。


自分のために、ヴァンパイアの村と正面から火花を散らすことさえ厭わない。


いや――


魔王の脳裏に、エリンの顔が浮かんだ。

そして、その腹の中で息づく双子のことも。


あの子たちのためか。


これまで“ヴァンパイア一族のエステル”であった彼女が、

今や“魔王の妻”として、そして“子どもたちの母”として、自らの立つ場所を選び取ったのだ。


そうであるならば、自分もまた、もはやヴァンパイア一族に遠慮する必要はない。


雪の降る日。

白く霞む尾根の上で、初めて見たエステルの姿。


あの日の光景は、今も胸の底に鮮明に残っている。


そしてその頃から、魔王の胸の奥にはひとつの不安が、消えぬ影のように棲みついていた。

いつか彼女は、自分のもとから去るのではないか。

自分は最後まで、この女の心を掴みきれぬのではないか――と。


だが今日、その影は音もなく消えた。


だからこそ、笑ってしまったのだ。


「そなたと共にいられることが、こんなにも嬉しい」


低く、静かな声でそう言って、魔王はエステルを引き寄せた。


冷えた肌。

ヴァンパイア特有の、ひやりとした感触。


ならばせめて、自分の熱で温めてやりたいと思った。


今回の件を見事に片づけてみせた妻への、

言葉よりも素直な褒美として。


◆◆◆


マハトラの執務室。


彼は机に腰を下ろし、目の前に積まれた書類へ静かに目を走らせていた。


その時、部屋の暗がりの奥から、低い男の声が滲むように響いた。


「長老がお送りになった魔王の魔力ですが、科学局が総力を挙げて解析を進めた結果、現時点で判明しているのは九十五パーセントまでです」


ライカン・スロープの村にある科学局。

それは彼ら一族が最も執念深く育て上げてきた、秘中の秘たる研究機関だった。


「九十五パーセント、か。残りの五パーセントが、それほど厄介だということか?」


「現在も解析は継続しております。時間は要しますが、いずれ解明できる見込みです」


要するに、まだ終わってはいない。

ただ、難航している――それだけの話だった。


ぼっ、と小さく音を立てて、マハトラの指先が揺れた。


その瞬間、つい先ほどまで机の上に置かれていた書類の端が燃え上がり、じわじわと灰へ変わっていく。


「では、こちらの報告を」


暗闇の中から、短い返答があった。


今度は、マハトラが語る番だった。


「まず第一に、長男エリンの能力は、科学局の予測を大きく逸脱している。予測値の、少なくとも二倍以上だ」


二倍。


その言葉が落ちた瞬間、暗闇の向こうがわずかに揺らいだ。

相手が息を呑んだのが、気配だけで分かった。


科学局の予測が、ここまで外れたことはない。

膨大な蓄積と実測を基に弾き出された数値は、常に現実をなぞってきた。


それが二倍以上となれば――

予測が誤ったのではない。

最初に組み上げた前提そのものが、どこかで根本から狂っていたとしか思えなかった。


「純血のヴァンパイアとの結合を考慮しても、これは異常だ。理由は現在も調査中。以上」


必要最低限の報告を終えると、暗闇の中の男が慎重な口調で問いを重ねた。


「長老として、何か見解はございますか」


意見を述べよ、ということだ。


「魔王妃によって、何らかの変化が生じたのではないか――そう見ている」


「変化、と申されますと?」


その問いには、微かに探るような響きがあった。


マハトラの口元が、わずかに歪む。


――まるで、私が何かを伏せているとでも言いたいのか。


「私が情報を隠しているとでも思っているのか?」


「そのようなつもりは。ただ、こちらも状況を正確に把握する必要がございますので」


「与えられた他の条件に変化はない。ならば変数は一つだ。魔王妃に原因があると考えるのが自然だろう。判明次第、報告する。以上」


「承知しました」


その言葉を最後に、暗闇の中の気配は、すうっと霧のように消えた。


部屋に残されたのは、焼け残った紙の匂いと、静かな沈黙だけ。


マハトラは椅子にもたれたまま、しばし身じろぎもしなかった。


「魔王妃様による変化、か……」


エリンの力にも驚かされた。

だが、この城へ来てから彼を最も深く揺さぶっているのは、間違いなく魔王妃エステルだった。


事前に集めた情報が、悉く意味を失っている。


退屈で、機械的で、何の面白みもない任務になるはずだった。

だがエステルの変化ひとつで、その前提がすべて崩れた。


「なぜ、魔王妃様は人間のように振る舞う?」


人間の研究において、彼らライカン・スロープ一族の右に出る者はいない。

科学局には、人間の行動、思考、習俗に関する膨大な資料が蓄積されている。


他の魔族たちなら、エステルの振る舞いを見てもせいぜい「少し変わっている」で済ませるだろう。

だがマハトラの目には違って見えた。


彼女の所作は、変わっているのではない。

あまりにも“人間らしすぎる”のだ。


「それに、なぜ人間のように呼吸をしようとする?」


その不自然さを、彼は見逃していなかった。


あれは無意識の癖ではない。

意識して繰り返し、身につけなければ出てこない動きだ。


ヴァンパイアに、呼吸は不要なのだから。


「エステル様の性格変化。人間と同じような呼吸。そしてエリン様の能力上昇……」


そこで一度言葉を切り、マハトラは目を細めた。


「だが、本当に奇妙なのは――まだ別にある」


ぱさり、と音を立てて、彼は別の書類を開いた。


執事という立場は、城の隅々に流れる情報へ自然と手を届かせる。


「なぜ、魔王妃様は吸血をしていない?」


着任以来、エステルが吸血したという記録は一度もない。


ヴァンパイアの村で代用されていた動物の血を摂っている可能性も考えた。

だが、それすら確認できなかった。


自分が赴任する直前に吸血していた可能性はある。

しかし、それを差し引いても間隔が長すぎる。


「しかも魔王妃様は、すでに二度、子を宿している……。それなのに、どうして今まで吸血なしで保っていられる?」


妊娠中に血を断つなど、本来なら危険極まりない。

人間で言えば、食事を一切取らぬまま胎児を育てているようなものだ。


どうして、あれで持ちこたえられる?

なぜ、倒れない?


「……普通なら、とっくに死んでいてもおかしくないはずだがな」


マハトラはそう呟き、燃え尽きた紙の灰を、指先で静かに払った。

第45話は、

魔王視点で描かれる“信頼が形になる瞬間”の回でした。


エステルの覚悟が、

止まっていた関係と世界の流れを、静かに動かし始めます。


そして物語は、

次の大きな転換点へ――。


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