第44話 炎球と抱擁
「こちらが金を払うどころか、逆にあいつらから金と領地を取るというのか?」
魔王が驚いた表情で聞き返した。
「ええ。おそらく資金をすぐに用意するのは難しいでしょうから、土地で支払ってくるはずです」
私は目の前の茶に口をつけながら答えた。
高山地帯の特産品であるこの茶は、いつ飲んでも美味しい。
舌先がぴりりと痺れる。
ローズベリー茶の特徴だ。葉に含まれた毒の作用によるものだった。
人間なら飲めなかっただろう。
ヴァンパイアになったおかげで口にできる茶だ。
ちらり、ちらり。
エリンが、私の前に置かれたローズベリー茶を見つめていた。
母が飲んでいるのを見て、自分も飲みたくなったらしい。
「まだ駄目よ。もう少し大きくなってからね」
料理長に確認したところ、ウムカウテの段階では危険な可能性もあるという。
もちろん料理長は「エリン様なら問題ないかもしれません」とも言っていたが、最初から危険のあるものを飲ませるわけにはいかない。
次からエリンがいる時は、この茶は控えた方がよさそうだ。
子どもは母親が口にするものを真似したがる。
エリンの前には、羊乳が用意されていた。
この地の子どもたちがよく飲む飲み物だ。
エリンが羊乳をごくごく飲む様子を眺めながら、
私は再び魔王へ視線を向けた。
「ヴァンパイア一族も、そろそろ目を覚ますべきです。いつまでも高山地帯に引きこもっているわけにはいきません」
続けて私は、魔族連合軍について説明した。
島全体の魔族をまとめ、一つの連合軍を作る構想だ。
「あなた一人で全部背負おうとしないで。皆でやるべきよ」
そう言って、私は魔王の手を握った。
意外にも、その手は荒れていた。
剣を握る指には、硬いタコができている。
絶え間なく戦場に立ち、この地を守り続けてきた証だ。
だが、いくら彼が強くとも、
一人では限界がある。
魔族の性質。
あるいは“この世界の仕組み”と言うべきかもしれない。
彼らは力を合わせることを知らない。
そうでなければ、勇者一行が各個撃破していく物語は成り立たないのだから。
私は、そんな結末を黙って見ているつもりはなかった。
「これ、すごく美味しいです」
横でエリンが言った。
羊乳が気に入ったのか、もう一本飲んでいる。
私はハンカチを取り出し、
エリンの口元についた羊乳を拭ってやりながら、飲みすぎるとお腹を壊すから気をつけなさいと注意した。
「はい! これで最後にします」
母の言いつけをきちんと守るエリン。
それにしても、私が息子の口元を拭ってやる姿がそんなに珍しいのだろうか。
魔王は不思議そうに私を見つめ、
給仕に控えていた周囲の魔族たちも、どこか驚いた様子だった。
私にとっては自然な行為でも、
彼らにとっては文化の違いを感じる光景らしい。
「そうだ。エリンがお父様に見せたいものがあるそうよ」
私は目配せし、準備しなさいとエリンに合図した。
「今回いただいた贈り物です」
エリンは誇らしげに、自分の手首を差し出した。
細い手首に、
アイボリー色の腕輪がはめられていた。
「これは?」
魔王の目がわずかに見開かれた。
「アイリス産の高級白香木か?」
さすが魔王。目ざとい。
エリンが身につけている腕輪の素材を、ひと目で見抜いたのだ。
……アイリス産?
いくつかの記憶がよみがえる。
そこは、ヴァンパイア一族が聖地として崇める山だった。
日本で言えば富士山のような存在。
そこに宗教的な意味合いまで加えたような場所だ。
“聖域”と呼ぶにふさわしい土地。
もっとも厳密に言えば、聖域は山頂付近のみ。
中腹より下には高級白香木が群生しており、必要に応じて伐採されていた。
ヴァンパイアの村における高級輸出品、とでも言うべきか。
外部への流通はほとんどなく、希少ゆえに高値で取引される品の一つだ。
その瞬間、ある光景が脳裏をよぎった。
(アイリス山……あの場所で……)
山頂にそびえる巨大な樹。
それをじっと見つめている私。
――昔のエステルだろうか。幼い頃の記憶?
断片的な映像が、すぐに途切れた。
「ヴァンパイアの村も、ずいぶん気を遣ったようだな」
魔王の言葉で、私は我に返った。
エステルの記憶から意識が戻る。
「そうみたいですね。ですが、贈り物を用意したのは村の外交担当者たちです。最高会議は関与していないはずですよ」
マハトラから聞いた情報を、ここで使う。
あの連中は、徹底的に踏みつける必要があった。
現最高会議を総入れ替えし、親魔王派で固めない限り、
連中との共存など不可能だ。
「なるほどな」
魔王も納得したようにうなずいた。
「では、見せてもらおうか」
その言葉を合図に、エリンが椅子から降り、両手を高く掲げた。
「ジュセンド・アティック」
父が見ているからか、いつも以上に気合が入っているようだ。
瞳にも強い意志が宿っている。
さきほどは片手だったが、今度は両手。
先ほどは四つ。
だが今回は――六つの火球が一斉に生まれた。
「エリンは火炎属性か? いや、だとしても、この年齢で炎を操るのは難しいはずだが……」
魔王は、私以上に驚いている様子だった。
どこか緊張しているようにも見えたが、
私はすでに一度この炎のショーを見ていた。
だから、少し余裕を持って見守れた。
(わあ……すごい)
六つの火球が舞い踊る光景は壮観だった。
まるで夜空の花火。
生き物のように空間を飛び回っている。
(すごい……やっぱりエリンは最高!)
心の中で歓声を上げる。
映像で見るのとは次元が違う。
本物の魔法が、目の前で躍動しているのだ。
「ぁ……あれ……」
エリンの口から戸惑いの声が漏れた。
先頭を飛んでいた火球が、ぐらりと揺れる。
四つから六つへ増えたことで、
制御が追いつかなくなったようだ。
火球同士が絡み合い始める。
ゴウッ!
制御を失ったそれらは、エリンの頭上へ落下し始めた。
「危ない!」
気づけば、私は駆け出していた。
エリンを強く抱きしめ、そのまま覆いかぶさる。
炎が落ちても、私の背中に当たる。
エリンだけは守れる。
(……え?)
だが、何も起こらない。
私は恐る恐る顔を上げた。
青く半透明の防護壁が、火球を遮っていた。
そのおかげで無事だったのだ。
パチン。
魔王が指を鳴らす。
火球も防護壁も、同時に消えた。
「ジュセンド・アティックは高等火炎魔法だ。まだウムカウテのお前が扱えるものではない。そして術者が魔法を制御できなければ、その魔法は術者自身を傷つける」
魔王の表情は厳しかった。
だから緊張していたのか。
エリンが年齢不相応の魔法を使っていたから。
魔王は立ち上がる。
「今のお前にジュセンド・アティックの訓練は早すぎる。知識と魔法腕輪によって魔力は補えても、運用は別問題だ」
エリンは肩を落とし、うつむいた。
無理をさせてしまった。
危険を理解できない子に、火遊びをさせたも同然だ。
「お母様が悪かったの。ごめんね!」
私はエリンを強く抱きしめた。
「お母様?」
抱きしめすぎたのか、
エリンが私の背中をぽんぽん叩く。
本当に申し訳なかった。
母として失格だ。
どうして魔王と同じ視点で考えられなかった?
魔法は危険と隣り合わせ。
それを考えるべきだったのに、
私はただ綺麗だと喜んでいただけ。
魔王がいなければ、どうなっていたか。
子育ては、常に慎重でなければならない。
小さな油断が、子どもを傷つける。
「怪我はない?」
私はエリンの前髪をかき分け、丁寧に確認した。
「はい。大丈夫です。お父様とお母様のおかげで無事でした」
エリンは明るく笑った。
だが、どこか沈んでいる。
誇らしげに見せた魔法が失敗したからだろう。
その時、魔王が口を開いた。
「とはいえ、お前には才能がある。私が見ている時なら訓練してもよいだろう」
「えっ……!」
エリンの表情がぱっと明るくなる。
練習を続けられる。
しかも父が見てくれる。
「だが私がいない時に、勝手にやってはならん。分かったな」
「はい!」
「お母様も見てるわ。これから絶対に一人で魔法の練習をしちゃ駄目よ。分かった?」
私は人差し指を振って言い聞かせた。
本当に肝を冷やした。
魔法が危険だと、身をもって思い知った。
いい教訓になった。
こうして育児の経験が積み重なっていくのだろう。
「では、エリン様は私がお連れいたします」
マハトラは頭を下げ、丁寧に礼をした。
王妃殿下と魔王様は今後の予定についてさらに話し合う必要があるため、
エリン様を先に乳母たちの部屋へ案内するのだ。
「ご無事で何よりでした」
その言葉に、廊下を歩いていたエリンが不意に立ち止まった。
先ほどまで父母の前で浮かべていた笑顔は消え失せ、
無表情のままマハトラへ視線を向ける。
その視線を受け、マハトラは言葉を継いだ。
「王妃殿下のお話を伺い、本当に驚きました」
エステルは、エリンが火炎魔法で怪我をしかけたことを心配し、
魔法書を読むのは構わないが、今後は決して一人で魔法訓練をさせないと言ったのだ。
「お父様とお母様のおかげで大丈夫だった。お父様は結界を張ってくれて、お母様は……」
エリンは手を伸ばし、自分の背中にそっと触れた。
母が強く抱きしめてくれた場所だ。
「でも、何に驚いたの? そこが気になるな。僕が怪我しかけたことに驚いたわけじゃないよね?」
冷えた眼差しがマハトラを射抜く。
とてもウムカウテの子どものものとは思えない目だった。
「い、いえ。もちろんエリン様が危険な目に遭われたことに――」
「嘘をつくなら、ここで殺すよ」
ゴウッ。
「ジュセンド・アティック」
十個の火炎球が一瞬でマハトラの周囲に出現した。
今にも焼き尽くさんばかりに、
炎が彼のすぐ傍を旋回する。
「はは……エリン様の前では、誤魔化しは効きませんね」
マハトラは気まずそうに頭をかいた。
「驚いたのは二つあります」
指を二本立てる。
「何?」
「一つ目。魔王様でさえ、エリン様の実力を見誤っておられたことです。魔法腕輪のおかげで、エリン様は一瞬で上級魔族級の戦闘力を得ておられますから」
すでに読破した魔法書の内容はすべて記憶済み。
ただウムカウテゆえに魔力量だけが不足していた。
その問題を、今回贈られた魔力腕輪が一気に補ったのだ。
「ヴァンパイアの村が送ってきたのは、サイズを縮めただけの成人用魔力腕輪です。まさかエリン様が使いこなせるとは思わず、手元の品を流用したのでしょう。ですが結果的に、エリン様にとっては最適な贈り物となりました。むしろ子ども用だったら出力不足でしたね」
「なるほど。どうりで想像以上に魔力が溢れたわけだ。抑えていたのに急にオーバーシュートしたんだ」
エリンは腕輪を指で弄んだ。
すでに制御は把握済み。
同じ失敗は起こらない。
「とはいえ魔王様も、ご子息にはまだ“子ども”という先入観をお持ちのようですね。もう少し見ていれば、エリン様が十分に火炎球を制御可能だと気づけたはずです」
今も十個の火炎球を自在に操っている。
六個程度なら難しくもない。
一時的な魔力過剰供給による制御の乱れ。
それだけの話だった。
「それで、二つ目は?」
「まさか王妃殿下がエリン様を抱えて庇われるとは。あれは本当に驚きました。耳を疑いましたよ」
マハトラは両手を軽く広げ、肩をすくめた。
「そのせいで、エリン様は魔法球を元の軌道に戻せなかったのですから」
「でも、そのおかげでお父様と一緒に修練できるようになった」
さらり。
火炎球が霧散する。
「もう使うなって言われたから、使わない」
炎が消え、マハトラはようやく安堵の息を吐いた。
「王妃殿下は本当に独特な御方ですね。そう思いませんか?」
「それは僕も思う。でも――」
エリンは再び背中に触れた。
まだ母の温もりが残っている気がした。
口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「そんなお母様が好きなんだ」
二人は再び歩き出した。
炎より熱かったのは、
母の抱擁でした。




