第43話 戦争寸前。使節団を完全に追い詰めた結果
「王妃があんな狂女だったとはな」
ホヤキンは苛立たしげに吐き捨てた。
エステルはヴァンパイア一族に対し、
三十万ゴールドと領地を差し出せと要求した。
しかも要求を突きつけるなり、
そのまま彼らを追い返したのだ。
マハトラは彼らを客用の部屋へ案内した。
少し休んだら、月が昇る頃にはすぐ出発しろ――
条件はそれだけだった。
宴も何もない。
ただ、ヴァンパイアの村への返礼品として持ち帰れと、
魔晶石の入った箱をレペルスへ渡しただけだった。
魔晶石は用途が広い。
それはレペルスが普段から取引している品の一つでもある。
だからこそ、
彼は即座におおよその価値を見積もることができた。
彼らが持参した贈り物より、
およそ一・三倍ほどは価値があるように見えた。
返礼としては妥当――
少なくとも、レペルスの基準ではそうだった。
ホヤキンが怒りのあまり返礼品を壊しかねないと思い、
彼は素早くそれを自分の荷物の中へしまい込んだ。
「やはり狂っていたんだ。頭がおかしいと皆が言っていた時に、気づくべきだった……!」
ホヤキンは、エステルにまつわる噂を思い出した。
古代神がその身に降りて、
たった一人で山の尾根を歩き回っているだの。
意味不明な独り言をぶつぶつ呟いているだの。
彼女には、そんな噂がいくつもあった。
成人してからは少し落ち着いたとも聞いたが、
その後すぐに政略結婚の駒としてこの地へ送られたのだ。
「ヴァンパイアの村を想う気持ちだけは本物だと聞いていたが……それすら違ったか」
ドンッ!
ミシィッ!
ホヤキンの拳がテーブルを叩きつけた。
それは一撃でへこみ、そのまま壊れた。
レペルスは黙って、その光景を見ていた。
今は何を言っても無駄だ。
ホヤキンの怒りが収まるのを待つしかない。
「戦争だ。もう戦争しかない!」
唐突に、ホヤキンが叫んだ。
その言葉に、レペルスはぎょっとして彼を見た。
「それは、どういう意味です?」
「これは我らヴァンパイア一族への宣戦布告だ。そういう覚悟でもなければ、あんな要求はできん。三十万ゴールドに加えて、領地まで差し出せだと? 狂っている」
「魔王城が落とされ、魔王がその座から追われでもしなければ、目は覚めんらしいな。そして、その時は魔王の息子とかいう奴も――」
コンコンコン。
その時、誰かが扉を叩いた。
「貴様、いつの間に……!」
気づけば、マハトラが入口に立っていた。
扉はすでに開いている。
ノックは、そこにいることを知らせるための仕草だったらしい。
「戦争、ですか……。では、我が一族と結んだ平和協定は破棄されたと見なしてよろしいのですね?」
「何だと?」
「それと一つ忠告ですが……エリン様の悪口はお控えになった方がよろしいですよ。正直に申し上げますと、王妃殿下が相手なら、私もどうにか笑って冗談として流せます。ですが、エリン様は本当に恐ろしいので」
「何を言っている!」
いくら魔王の息子とはいえ、
まだウムカウテを終えたばかりの子どもだ。
そんな子をつかまえて、
恐ろしいとはどういうことか。
「ですが、よく考えてみれば王妃殿下への悪口も知れればまずいですね。むしろエリン様の方が、その件でお怒りになる気がします。とにかく、この魔王城では静かに口を閉ざしていた方が、皆様の身のためだということです」
「ちっ。やはり狼犬どもは、媚びるのだけは上手いな」
“狼犬”。
その言葉に、マハトラの額がぴくりと動いた。
それが自分たち一族への蔑称であることくらい、
彼も当然知っている。
「媚びではなく、本心です。それに、もしエリン様への不穏な言葉をこの私の前で口にされるようなら……その時は私も黙っていられません。もちろん、魔王様と王妃殿下に対しても同じことですが。とはいえ、今の気分としては、むしろそうしてくださると少し嬉しいですね」
マハトラはにっこり笑って言った。
殴ってやりたい。
だが理由もなくはできない。
だから、こちらから手を出せる口実を寄越せ――
そう言っているのも同然だった。
「そうか?」
ホヤキンの瞳が、わずかに赤く染まった。
彼はヴァンパイア村でも上級ヴァンパイア。
戦闘力だけを見れば、かなり上位に属する。
今は使節団の長という立場があるから耐えているだけだ。
だがマハトラの方から、
そんなものは関係ない、一戦やるかと言うのなら、
粉砕してやる自信があった。
「ちなみに、まだお話ししていないことが一つありまして」
すっ。
マハトラが、自分の袖口をわずかにまくり上げた。
「なっ……! その紋様は……!」
それを見た瞬間、ホヤキンの顔が歪んだ。
◆◆◆
「お母様。あの人たち、要求を受け入れるでしょうか?」
彼らが出て行くと、
エリンが私にそう尋ねてきた。
どうして、こんなに可愛いのだろう。
黒くて丸い瞳が、まっすぐ私を見上げている。
私はエリンを抱き上げて、
自分の膝の上に乗せた。
今はまだ簡単に抱き上げられるけれど、
いつか一気に大きくなったら、こうして持ち上げるのも大変になるのだろうか。
ふと、そんなことを思う。
「お父様は大丈夫なんですか?」
「心配しなくていいわ。お父様にまで被害が及ぶようなことはないから」
「もう対策は全部立ててあるんですね!」
やはりお母様はすごいです――
そんな顔をエリンはしていた。
「お父様が戻ってきたら、どう対応するつもりなのか、ちゃんと話してあげるわ」
今、魔王は城の外にいる。
使節団が魔王城を出れば、すぐ戻ってくるはずだ。
「はい!」
私の言葉に、エリンはようやくほっとしたような顔をした。
もしかして、かなり心配していたのだろうか。
私が無茶をしすぎたのではないかと。
母を想ってくれる、その気持ちが嬉しかった。
魔族の子として、
冷たく非情な心だけを持って育ったらどうしようかと思っていたけれど。
本当に、よかった。
その時、エリンが私の膝からぴょんと飛び降りて言った。
「魔法腕輪、ちょっと使ってみます」
「どうやって?」
「本でしか読んだことのないことを、実際にやってみたいんです。一度見ていてください」
お母様に見せたくてたまらない――
そんな様子だった。
「ええ。やってごらんなさい」
私は、エリンの魔法披露を待った。
この子がどんなものを見せてくれるのか。
それを楽しみにするのも、なかなか悪くない。
「ジュセンド・アティック」
エリンが手のひらを広げると、
赤い火球がふっと生まれた。
うわ、びっくりした。
エステルの身体は眉一つ動かしていなかったけれど、
私はちゃんと驚いていた。
これが、本物の魔法なんだ。
エリンの手のひらの上で、
野球ボールほどの火球がゆらゆらと揺れ始める。
だが、それで終わりではなかった。
さらり。
さらさらっ。
一つ、二つ、三つ、四つ。
同時に四つの火球が宙へ散った。
まるで生きているかのように、
それらは隊列を組んで動いていく。
(エアショーみたい)
火球が描く、空中の炎のショー。
くるくると空を回り、
互いに尾を揃えて飛び、
渦を描くように連なっていく。
四つを同時に操るなんて、
簡単にできることではないはずだ。
記憶の中にある知識が、そう告げていた。
それぞれの魔力の流れを、
完璧に制御できなければ不可能だ。
私は思わず拍手した。
「すごいわね」
私が楽しそうにすると、
エリンも嬉しそうだった。
(これ、相当すごいのよね? まだウムカウテを終えたばかりなのに、このレベルって……)
魔王が見ても驚くに違いない。
さすが、オールラウンド・マジシャン。
魔法の才に恵まれた子だ。
「これがあると、ずっとやりやすいです」
そう言って、
エリンは手首の魔法腕輪を持ち上げた。
マハトラの言っていた通り、
修練中のエリンにとって、あれはまさに最適の贈り物だった。
今回の使節団で、
唯一気に入ったものだ。
◆◆◆
ホヤキンの表情が固まった。
「ライカン・スロープの長老だと? なぜそんな者がここにいる!」
その手首に刻まれた紋様は、
長老を示すものだった。
しかも、ライカン・スロープの長老になるには、
戦時中に少なくとも上級ヴァンパイアを五体は殺していなければならない――
そんな話まで伝わっている。
「私は戦争中、そちらの一族の上級ヴァンパイアを殺したことはありませんので、あまりそう睨まないでいただきたいですね。あの話は、戦時中に一時的に起きた状況を、貴族たちが大げさに解釈しただけですから」
「ちっ」
「ですが、やろうと思えば十分にできますよ」
お前ごとき、今この場で殺せる。
そう言っているのと同じだった。
眼鏡の奥の鋭い瞳。
笑ってはいる。
だが、その目はまるで笑っていなかった。
「くっ……」
ホヤキンは拳をぎゅっと握った。
相手がとんでもなく強いと分かった瞬間、
さすがにそれ以上前へ出る気にはなれなかった。
マハトラは、やはりそうなると思っていましたよ、とでも言いたげな顔をしていた。
つくづく小物だ。
自分より弱い相手には威張り散らし、怒鳴りつけることしかできない。
その時、
今まで黙っていたレペルスが慎重に口を開いた。
「魔王様とライカン・スロープ一族は、どういう関係なのです?」
「おや。この質問をなさるのがずいぶん遅かったですね。ずっと待っていたんですよ」
マハトラは、ホヤキンに対する時よりもずっと好意的な態度で、レペルスに向き直った。
「ですが、私が話したとして、その言葉を信じますか?」
ライカン・スロープは嘘つきであり、
奴らの言葉は信用ならない――
そんな認識が、ヴァンパイアたちには根づいていた。
「まずは、聞きたいですね」
「ではお話ししましょう。ライカン・スロープ一族は、魔王様を強く支持しております。もし、あのお方の統治に反旗を翻す一族が現れるなら、誰よりも先に駆けつけて戦うつもりです」
そう言いながら、
マハトラはじっとホヤキンを見つめた。
「ヴァンパイア一族のような反乱分子を放ってはおけませんからね。そういう連中は、芽のうちに摘んでしまうのが上策です。皆殺しにして根絶やしにすべきでしょう」
「反乱分子だと!? 我らのどこが反乱分子だ!」
「先ほど、魔王様を追い落とすとおっしゃっていたではありませんか。しかも戦争にまで言及されていましたよね。私は確かに聞きました」
マハトラはそう言いながら、
自分の右耳に手のひらを当てた。
「この野郎……!」
ホヤキンは歯を食いしばった。
自分の言葉尻を取られている。
だが、それはホヤキン自身の失言だ。
一族を代表する立場にある者が、
軽々しく言葉を口にしてはいけない。
そんな基本中の基本すら守れなかったのだ。
「魔王の政に反旗を翻すこと。人間との戦時下でそのような真似をするのは、利敵行為に当たります。そして我ら一族は、魔王様の右腕となって、そのような利敵行為を働く者どもを殲滅する覚悟ができています。どんな犠牲を払ってでも、です」
「ぐっ……」
命令さえ下れば、
既存の平和協定を破棄し、
ヴァンパイアの村へ進軍する――
そういう意味だった。
しかも、それを口にしているのが
ライカン・スロープの長老ともなれば、
その重みはまるで違う。
本気だ。
こいつら、本気で戦争をするつもりなんだ――
そんな考えが、ホヤキンの脳裏をよぎった。
「これは単なる一族間の争いではありません。魔王軍の先鋒として進撃するのです。ゆえに、大義名分はこちらにあります」
「そんなもの、屁理屈だ!」
魔王の名を借りて、
ヴァンパイアの村を焼き払う気なのだと、
ホヤキンにははっきり見えていた。
「屁理屈、ですか?」
マハトラは呆れたように笑った。
「屁理屈でなくて何だという!」
「先に屁理屈を使ったのは、そちらでしょう」
「何だと?」
「最初から、ほどほどのところで受け取って引き下がればよかったんですよ。欲をかいたせいで、こんなことになったんじゃありませんか」
その瞬間、
マハトラの全身から凄まじい殺気が噴き上がった。
「くっ……」
「こ、これが……長老級の戦闘力……?」
彼の実力を肌で感じた瞬間、
ホヤキンはもう大声を上げることもできなくなった。
ようやく黙らせることができたと見て、
マハトラは再び笑みを浮かべた。
「それと、三十万ゴールドを一か月以内に用意するのが難しいのであれば、代わりに領地で上乗せしていただいても構いませんよ」
以前、彼らが出した提案を、
そのまま突き返しているのだ。
マハトラが手招きすると、
二人の魔族が入ってきた。
彼らは大きな地図を広げる。
「資金が足りない分、このあたりの領地を追加で提供してくださっても結構です。どうぞご安心を」
そう言いながら、
マハトラは一本の線をすっと引いた。
「それは……!」
今度は、
ライカン・スロープの村との境界線だった。
その一部を差し出せと言っているのである。
「ここは魔王直轄領となり、緩衝地帯になります。争いの火種を減らせますから、双方にとって良い提案でしょう?」
「そんな提案を受け入れると思うのか!」
「それは、そちらの最高会議で決めることでしょう。ああ、そうそう。要求書はすでに送ってあります」
「何だと!?」
「やはり文書にして送るのが一番確実ですからね。数日もすれば届くはずですが……。早く戻った方が、こんな提案が出た理由について、まともな言い訳を用意できるのではありませんか?」
ホヤキンは歯をぎりっと鳴らした。
魔王が戻ってくるまで、
この場で粘るという選択肢も、
ほんの少しだけ頭をよぎっていた。
だが要求がすでに文書で送られているなら、
急いで戻って弁明の材料を作るしかない。
ここで時間を浪費すれば、
事態は取り返しのつかないところまで膨れ上がる。
もちろん最高会議は、
今回の件の責任追及に入るだろう。
その責任をホヤキンが丸ごと被せられる可能性は高かった。
下手をすれば、
領地のかなりの部分を奪われることになる。
「帰るぞ」
ここで休んでいる場合ではない。
たとえ引き止められても振り払って出ていくしかない。
一刻も早く、村へ戻らなければならなかった。
◆◆◆
「うふふふふ」
マハトラが妙な声で笑っていた。
そんな彼を、
エリンも不思議そうに見つめている。
「うまく片づいたの?」
「はい。王妃殿下」
彼は事の流れを、
大まかに報告してきた。
私の考えた通り、
すべてうまく進んだ。
ライカン・スロープという牽制役を利用して、
ヴァンパイアたちを抑え込む。
実のところ、
それは魔王も最初から考えていたことなのかもしれない。
ただ、“私”という存在があるせいで、
ヴァンパイアたちを強く扱えずにいた。
だからこそ、
私が前に出た瞬間に、
状況は一変せざるを得なかったのだ。
むしろ私が表に立ったことで、
より積極的な措置を取れるようになった。
だから私は、
意図的に魔王をできるだけこの件から外したのでもある。
そもそもエステルの父は名目上の族長に過ぎず、
実権は長老たちで構成された最高会議が握っていた。
そしてエステルは純血のヴァンパイアではあったが、
族長の実の娘ではない。
幼い頃に両親を亡くし、
族長の娘として養女に入ったのだ。
もっとも、それもエステルが純血のヴァンパイアだったからこそ。
その血筋を維持するための、村としての判断にすぎなかった。
村の道具として育てられたエステル。
だが私はもう、
その“道具”としての役目を果たすつもりはないと宣言したのだ。
「ずいぶん機嫌がよさそうね」
いつもの作り笑いではない。
心の底からの笑みだった。
「はい。とても気分がいいです。こんなに気分がいいのは初めてですよ。これもすべて、王妃殿下のおかげです」
こいつ、完全に私の信奉者になったわね。
私もヴァンパイアだということを忘れたのだろうか。
けれど私は、
ヴァンパイアの村に未練なんてない。
そこを素早く見抜いたのなら、
なかなか勘のいい男だ。
「ヴァンパイア村の最高会議も、これで少しは目が覚めるでしょう」
魔王が人間と戦っている最中に、
その背後で火遊びをするのがどれほど危険か。
ようやく思い知るはずだ。
「三十万ゴールドを一か月で用意するのは難しいでしょうから。領地で補償してくるはずです」
エリンが受け継ぐ土地が、
その分だけ増えることになる。
「向こうにも立場がありますから、大きく騒ぎ立てるのは難しいでしょうしね。もちろん、従わずに突っぱねてくれたら、それはそれで面白いのですが」
そうなれば、戦争だ。
平和協定は破られる。
「彼らと結んだ平和協定では、ライカン・スロープの村が譲歩しすぎましたから。ですからヴァンパイア村としても、それを破るよりは領地を差し出した方がまだましなんです。我々の村へ直接渡すとなれば絶対に拒むでしょうが、魔王領になるという形なら話は別です。しかも最終的にはエリン様へ渡る土地だと考えれば、あちらとしても多少は納得しやすいでしょう」
「そうでしょうね」
どう考えても、
私の要求通りにする以外に道はない――
向こうはそういう結論に至るはずだ。
もちろん今回の件について、
つまり無茶な要求を魔王に突きつけたことについての責任追及は、
あちらの内部で広がっていくだろう。
そして二度と軽々しく魔王に盾突こうなどとは、
夢にも思わなくなるはずだ。
「お父様、早く戻ってきてほしいです」
エリンがにこにこと笑いながら言った。
こんな面倒な政治的計算の話よりも、
早くお父様に自分の魔法を見せたくてたまらないのだ。
「すぐ戻ってくるわ」
私はエリンの頭を撫でながら言った。
その時、
ちょうどぴったりのタイミングで魔王が帰還した。
魔王軍の機動訓練という名目で城を出ていたが、
使節団が帰ったと聞くや否や、
すぐさま戻ってきたのだ。
私の胸は高鳴った。
今回の件、
どう自慢したら魔王に褒めてもらえるだろう。




