第36話 父になる日、家族になる時間
「何をどうすればいいのか……分からないな」
魔王が、私の耳元で小さく囁いた。
「あなたが子どもの頃、言ってほしかった言葉。
してほしかったこと。
それをしてあげればいいんです」
とても簡単な答え。
けれど、多くの者にはそれが分からない。
人は無意識のうちに、
過去の自分と重なり、同じ行動を繰り返してしまう。
私が導けるのは、ここまで。
この先は――
魔王自身が踏み出すべき一歩だった。
魔王は再びエリンを見る。
エリンは静かに立ち、
父の言葉を待っていた。
すっ。
魔王が、ゆっくりと身を低くする。
常に他者を見下ろす立場にいた彼が、
膝を折り、エリンと視線の高さを合わせた。
「さきほどの言葉は忘れなさい。
今はただ……お前が無事に大きくなったこと。
それだけで、私は十分に嬉しい」
それが、彼の本心だった。
一族の戦士としての義務も、
魔王家の責務も――
そんなことより。
こうして成長してくれたことが、
ただ、ただ嬉しかった。
拳ほどの小さな赤子だったエリン。
その急速な成長に、
私が胸を打たれたように――
魔王もまた、同じだった。
ただ、表に出せなかっただけ。
心の奥に、静かに押し込めていただけ。
「ありがとう、パパ。
本当に、ありがとう」
エリンが、にこりと微笑んだ。
口には出さなかったけれど――
久しぶりに会った父が、あまりに堅い話ばかりするから、
きっと寂しかったのだろう。
でも。
父の本心を聞いた瞬間、
私の知る“いつものエリン”に戻った。
その時。
魔王がエリンを抱き上げた。
……いや。
そのまま肩車までしてしまった。
エリンは驚くほど上手くバランスを取る。
魔王も両手でしっかり支えている。
「よく見えるか?」
「わあっ!」
楽しそうな歓声。
私はそこで気づいた。
まだ背の低いエリンは、
安全柵のせいで景色の多くを見渡せなかったのだ。
だが今は違う。
魔王の肩の上。
今まで見えなかった高さから、
空の海の絶景が広がっていた。
「ママがここを好きな理由、分かった気がする」
視界いっぱいに広がる大空。
エリンは満足そうだった。
……それよりも。
魔王の方が、もっと嬉しそうに見えた。
幼い頃に得られなかった喜びを、
我が子が味わっている。
それだけで、満たされているようだった。
本当に、よかった。
母親の愛情だけでは足りない。
父親の役割もまた、同じくらい大切だ。
絡み合っていた負の連鎖が、
音を立てて断ち切られる。
物語の大きな軸を、
私は確かに断ち切った。
「ほら、あの灰色の建物が見えるか?
あそこでは騎兵用の馬を育てている」
「今度、見に行きたい。気になる」
魔王はエリンに、城の周囲の景色を語って聞かせていた。
それは――
私の知っている“父親”の姿。
魔王は、他の魔族とは違う。
魔族だからといって、
皆が冷酷で残忍なわけではない。
人の心を持つ“変わり者”もいる。
魔王も、その一人。
(きっと……辛かったよね)
冷徹な魔族社会で育つのは、
簡単ではなかったはず。
それでも、ここまで優しく在ってくれた。
そのことが、ただ嬉しい。
その時。
エリンが、ふと顔を巡らせた。
「そろそろ下りて休みます。
ママは大丈夫?」
「うん、大丈夫よ」
本当は少し眠かった。
でも、我慢していた。
きっと、私を気遣ってくれたのだ。
「昇降機横の呼び鈴を押せば乳母が来る。
エリンは彼女たちと戻りなさい。
あなたは下層の暗室で休むといい」
魔王が私に言った。
私のために作られた暗室。
故郷の洞窟のような空間。
ヴァンパイアの私にとって、
癒やしの部屋だった。
「エリン様、お供いたします」
乳母たちが迎えに来て、
エリンは連れられていった。
空の海に残るのは――
私と魔王だけ。
視線が交わる。
私は歩み寄り、
彼の首に腕を回した。
「今は……伝統の作法で共に過ごす時間は――」
名残惜しさの滲む声。
私は急いで耳元に囁いた。
「私も、肩車してほしい」
エリンがいない今がチャンス。
もっと高く。
もっと遠く。
彼が見てきた世界を、
私も見てみたかった。
ひゅっ。
「わああっ!」
肩車とは少し違ったけれど、十分。
魔王は私を軽々と抱き上げ、
肩へ乗せてくれた。
落ちないよう、彼の髪を掴みながら景色を眺める。
「こんなことが好きだとは知らなかった」
「これも好きだけど……
あなたとこうして過ごす時間の方が、もっと好き」
そう言って身を屈め、
彼の額にキスをした。
すると魔王は私を降ろし、
今度は両腕で抱き上げる。
「これでは景色が見えないな?」
「いいんです。
今は、あなたを見る方が好き」
首に腕を回す。
顔が近づく。
唇をかすめる口づけ。
吹き抜ける風。
長い髪が舞う。
風が止むまで、キスは続いた。
この場所の風は――
長く、優しく吹き続けている。
私は暗室へ入った。
洞窟のような闇。
ヴァンパイアにとって安らぎの空間。
双子のためにも、
しっかり休まなきゃ。
(あの夢は胎夢だったのかな……)
空を舞う不死鳥。
この子たちの属性?
私と同じ支援系?
早く会いたい。
……そういえば。
エリン、何を食べるんだろう。
厨房長に聞くの忘れてた。
ウムカウテ後は食事も変わるはず。
目覚めたら、夕食は私が作ろう。
何にしようかな……
そう考えながら、私は眠りに落ちた。
◆◆◆
エリンと乳母たちは授乳室へ向かった。
隣室には新しい部屋を準備中。
本来は別の場所だったが、
授乳室の近くが良いという判断だった。
ひゅっ。
「エリン様?」
足早に歩くエリンを乳母が呼び止める。
「そちらは違う方向です」
曲がり角を逆に進んでいた。
「厨房に行きたい」
「では私たちが先導いたします」
後方の護衛たちが前へ出る。
「大丈夫なのに……」
だが護衛は慎重だった。
ウムカウテ到達とはいえ、
まだ子ども。
万全とは言えない。
厨房に近づくと、濃厚な香り。
「これ……ママのカレーだ」
エリンがぽつりと呟く。
その時。
誰かの視線を感じた。
振り向く。
――誰もいない。
エリンの表情が、わずかに強張った。
家族の笑顔の向こうで、
ひとつの影が静かに息を潜めている。




