第35話 仮面の王、父になる瞬間
「待たせてしまって、すまない」
彼の声が、私の左耳元で囁いた。
同時に、両腕が私を優しく包み込む。
「きゃっ!」
思わず驚きの声が漏れた。
……不自然じゃなかったよね?
でも正直、本当に驚いた。
来ると分かって身構えていたのに、
気配すら感じさせず近づいてきたのだ。
「あなた、忙しすぎじゃないですか?」
私は身体を回し、彼と目を合わせた。
すぐ目の前の彼の顔。
少し疲れているように見えるのに、瞳は鋭く冴えている。
他者を統べる者。
それが、私の夫。
「来てたんですね。びっくりしました」
その時、隣にいたエリンが口を開いた。
少し心配していたけれど、
エリンの演技は完璧だった。
何も知らなかった子どもが驚いた――
そんな自然な反応。
魔王は視線を落とし、エリンを見つめる。
(驚くよね?
昨日まで赤ん坊だったエリンが、こんなに大きくなったんだもの)
私はウムカウテを迎えたエリンを見た瞬間、
胸が張り裂けそうになり、涙が溢れそうになった。
私の姿が見えないだけで
城中に響くほど泣いていたあの子が――
こんなにも成長したのだから。
さあ、あなたも反応して。
きっと胸がいっぱいでしょう?
感慨深いでしょう?
――だが。
私の予想に反し、
魔王の反応は驚くほど冷静だった。
「ウムカウテ到達、祝着だ。
これでお前も初級戦士と名乗れるな」
表情はほとんど動かない。
(え……?)
思わず目が丸くなる。
予想外の出来事に遭遇した時の、あの反応。
もちろん心の中で、だけど。
「一族を導く戦士として、己の役目を果たせ。
それが魔王家に生まれた男の責務だ」
エリンはじっと立ったまま、彼の言葉を聞いている。
気のせいだろうか。
魔王が話すほどに、
エリンの愛らしく柔らかな雰囲気が薄れていくような――
「祖父が我に託した一族の剣。
いずれそれはお前に継がれる。
剣の守護者として、一族を守れ」
言葉自体は正しい。
魔王の長男に向ける言葉として、十分に。
……でも。
それ、今言うこと?
今日は、ウムカウテを迎えた“初日”なのに。
感動で声を震わせる姿とまでは言わない。
せめて、喜びを隠しきれない様子くらい見せてほしかった。
なのに――あまりにも硬い。
そして話は、まだ終わらなかった。
「我もまた、ウムカウテ初日に父より一族の義務を聞かされた。
我が生涯を一族の繁栄に捧げると決めた日だ。
お前もそうであれ。戦士の責務を忘れるな」
――受け継がれるもの。
魔王もまた、父にされたことを
そのまま我が子にしているのだ。
(魔王のお父様……
つまりエリンのお祖父様も同じだったのね)
受けたものを、そのまま子へ。
家の空気。
代々受け継がれる“家の色”。
それが簡単には抜けない理由。
……分かった。
百歩譲ろう。
エリンには、生まれながらの責務がある。
それは理解している。
でも。
それ“だけ”の人生なんて、あんまりだ。
言うべきことを言ったなら、
その後は優しい父親の顔を見せて。
あなたが硬い姿しか見せなければ、
エリンもそれをそのまま学んでしまう。
すっ。
私は彼がこのまま去らないよう、そっと身構えた。
「問題なく成長した姿を確認でき、嬉しく思う。
必要な物があれば執事長を通して申せ」
それだけ告げ、魔王は踵を返そうとした。
もう用は済んだ――
そう言わんばかりに。
やっぱり。
「どこへ行くんですか!」
私は後ろから、彼を強く抱き止めた。
予想外だったのか、魔王の動きが止まる。
振りほどこうとした気配。
でも私はヴァンパイア。
捕らえたら離さない。
「なぜ急に……昨日は急務が――」
昨日来られなかったことを
責められていると思っているらしい。
「昨日の事情は聞いてます。理解してます。
でも、今の態度は違うでしょう」
子どもの前だ。
声を荒げず、そっと耳元で囁く。
「態度? 何のことだ」
本気で分かっていない顔。
私は奥歯を噛みしめ、もう一度囁いた。
「本当に……それだけが言いたかったんですか?」
私の知る魔王は、こんな冷たい人じゃない。
私といる時は見せる、
人間に似た温かな心。
なのに他者の前では、徹底的に隠す。
威厳のためだと理解はしている。
でも――
“他者”に、
私たちの子どもまで含まれるのは許せない。
家族でしょう?
家族には、温もりを見せて。
「あなた、本当は今――
嬉しくて仕方ないんでしょう?」
「でも、どう表現すればいいか分からない。
そんな気持ちの出し方、教わらなかったんですもの」
魔王の身体が、わずかに強張った。
図星だ。
「大丈夫。分かってます」
私は彼を強く抱きしめた。
体格はずっと大きいのに、
今は腕の中に収まる存在のように感じる。
「家族にはね、強さよりも大事なものがあるの」
守る力じゃない。
愛する力。
その時――
小さな手が、私たちの服をぎゅっと掴んだ。
見上げる黒い瞳。
「……パパ」
空気が止まる。
世界が、静まる。
王の仮面に、初めて亀裂が入った。
エリンの声は、剣よりも鋭く。
戦場よりも深く。
男の心を射抜いた。
マントが揺れる。
視線が落ちる。
そして――
ほんの僅かに。
本当に、僅かに。
魔王の唇が、震えた。
その瞬間。
王ではなく。
覇者でもなく。
ただ一人の父親が、そこにいた。
家族という名の光が――
氷の王を、静かに溶かしていく。
愛し方を知らないなら、
私が教えればいい。
それはきっと――
エリンにも、
これから生まれる子どもたちにも、
そして魔王にも。
私が贈れる、最高の贈り物。
だって私は、
この家族が、
心から幸せになってほしいのだから。




