第34話 母と子の秘密の合図
私はエリンと一緒に、廊下の突き当たりにある昇降機へ乗り込んだ。
ウィーン――
以前よりも速度が抑えられている。
もしかすると、私が乗る可能性を考えて配慮したのかもしれない。
エリンは物珍しそうに、
広い窓越しに魔王城の外の景色を眺めていた。
こうして見るのは、初めてよね。
子どもの目には、この世界はどんなふうに映っているのだろう。
私もエリンの隣に立ち、景色へ視線を向ける。
森と草原に囲まれたこの地は、
何度見ても息を呑むほど美しかった。
いつか、生まれてくる子どもたちも一緒に、
家族みんなでピクニックを楽しめる日が来てほしい。
執務室の前には、
以前と違って警備の魔族が立っていた。
……まさか、前に私が勢いよく扉を開けたせい?
でも私としては、来訪を伝えてもらえるから、むしろ都合がいい。
「魔王様は?」
「中におられます」
私の姿を見るなり、彼は直立姿勢で即答した。
……どれだけ忙しいの。
まさか徹夜? 戦争が終わったのに……むしろ前より忙しそうね。
「私とエリンが来たと伝えて」
「はっ!」
彼は素早く扉をノックし、執務室へ入っていった。
「ここがパパの働いてる場所よ。覚えてる?」
まだ赤ん坊だったエリンを連れて来た場所。
魔王にカレーを食べさせた、あの日。
「カレー粉を元に戻してくれたの、覚えてる?」
思い出す。
あんなことができたのは、エリンだけ。
オールラウンド・マジシャンの力で、壊れたカレー粉を元に戻した。
「そんなこと……ありましたっけ?」
エリンは唇に指を当て、首を傾げた。
もう……可愛いんだから。
仕草の一つ一つが愛おしい。
ウムカウテ以前の記憶は、あまり残っていないのかもしれない。
私だって幼少期の記憶は曖昧だもの。
構わない。
これから一緒に、新しい思い出を重ねていけばいい。
ズキン。
突然、腹部に痛みが走る。
中でケンカでもしてるの?
双子だから……?
「……っ」
顔をしかめた私を、エリンが心配そうに見上げた。
「大丈夫よ。
お腹の子たちが元気に動いてるだけ」
エリンは近づき、私のお腹に耳を当てた。
動きが分かるの?
エリンの時とは違う、ごく普通の妊娠と出産。
それが不思議なのかもしれない。
ズキッ。
また痛む。
やっぱり双子だから激しいのかも。
その時――
エリンが小さな手をお腹に添え、呟いた。
「ケンカしないで。ママ、痛いでしょ」
すうっ。
「……え?」
痛みが消えた。
「お腹の子たち、エリンの言うことちゃんと聞くのね」
私が言うと、エリンは意味深に微笑んだ。
身体が一気に軽くなる。
そこへ先ほどの魔族が戻ってきた。
「ただいま重要な会議中でして……」
魔法球による遠隔会議中らしい。
今は会えないという。
……そんなに重要な会議なのね。
私とエリンが来ているのに。
でも、私は堪えた。
彼の背負う重責を理解している。
戦争が止まったことで、
各部族間の争いが再燃している。
この地は、統一国家ではない。
魔族たちは各地に分かれ、勢力を競い合っている。
隣同士ですら友好とは言い難い。
共通の敵“人間”がいたから、
一時的に沈静化していただけ。
魔王の仕事は、
戦争だけでなく調停も含まれる。
「エリン、残念よね」
せっかくパパに会いに来たのに。
私は行き先を変えることにした。
「パパ、急に忙しくなっちゃったみたいね。上の公園に行こっか?」
子どもの前で愚痴は言わない。
夫婦の話は、二人きりの時にすればいいもの。
「空の海に行こう」
入口の魔族にも伝えておいた。
――会議が終わったら来てね、という意味。
◆◆◆
空の海。
魔王がエリンの指を握った場所。
私たちの距離が縮まった場所。
そして――
今お腹にいる子どもたちを授かった場所。
涼しい風が吹き抜ける。
日差しを遮るシェードルートの下を進み、
パラソル席へ腰掛けた。
庭園担当の侍女が慌てて駆け寄る。
「少し休むだけだから。冷たいお水をお願い」
魔法浄化された氷河水。
天然のミネラルウォーター。
ヴァンパイアの味覚が保証する最高品質。
透明なグラス。
大きいのが私、小さいのがエリン。
子どもに炭酸は、まだ早いわ。
私は景色を眺めた。
大自然は心を癒す。
「パパはね、魔王だから忙しいの」
エリンに伝える。
「ママ」
「ん?」
「じゃあ、ママがパパを手伝えばいいじゃない」
……確かに。
私には、他の誰も持っていない知識がある。
その時。
エリンが入口の方を指さした。
「誰か来ます。
エレベーターの魔力が……」
音はしない。
けれど、確かに感じる。
私は入口を見る。
ここは私と魔王の場所。
来るのは――魔王。
「……知らないふり、してみる?」
私は人差し指をそっと立て、
エリンに“静かに”の合図を送った。
エリンは一瞬きょとんとした後、
すぐに小さく笑い、同じ仕草を真似る。
しーっ。
母と子だけが共有する、秘密の合図。
その瞬間。
空の庭園を撫でていた風が、ふっと止んだ。
静寂。
次いで――
微かに震える大気。
エリンの瞳が、きらりと光る。
「……来るよ」
囁くような声。
音はない。
足音も、気配もない。
それでも分かる。
空間に滲む、圧倒的な魔力。
静かに。
確実に。
この場所へ近づいてくる存在。
私は視線だけでエリンに問いかける。
――分かる?
エリンは誇らしげに、小さく頷いた。
“感じる力”は、もう本物だ。
エリンの小さな手を、そっと握る。
鼓動が重なる。
とくん。
とくん。
母と子の間に流れる、確かな時間。
やがて――
庭園の入口。
影が、ひとつ伸びた。
気配を殺し、
音を消し、
それでも隠しきれない存在感。
この空と海の庭を、
もう一人、
“家族”が訪れる。
私は、振り向かない。
気づいていないふりをして、
ほんの少しだけ、口元を緩めた。
(……おかえりなさい)
その再会は――
静かに、世界をやわらかく変えていく。




