第33話 帝国の策と、魔王妃の愛
帝国御前会議の終わり。
これから帝国が進むべき道についての議論は、すべて終わった。
その時――
皇帝の指に嵌められていた指輪が、かすかに震え始めた。
「何事だ?」
皇帝は指輪を持ち上げ、耳元へと運ぶ。
遠隔音声伝達が可能な魔法指輪。
帝国内でも数点しか存在しない極めて特殊な品であり、
イェーガー・ナイツからの報告を随時受け取ることができる。
「ほう……そうか。実に喜ばしい」
皇帝の視線が、宰相へと向けられた。
「喜べ。君の孫が無事帰還したとの報告が入った」
がたん。
宰相が勢いよく立ち上がる。
「イェーガー・ナイツが身柄を確保。現在、健康状態を確認中だ」
閣僚たちの視線が微妙に変わった。
――本当は、もっと前に確保していたのではないか。
だが皇帝が事実を伏せ、時機を待っていた可能性もある。
もちろん、そのようなことは口にできない。
命が惜しければ、なおさらだ。
「緊急転送で皇宮へ帰還中だ。すぐに会いに行くといい。残念だが、食事は共にできそうにないな」
本来であれば、御前会議後は全員で会食するのが慣例だ。
だが今日は特例だった。
「ありがたき幸せにございます」
「フィリアも連れて行け。今頃、外で落ち着かず待っているはずだ」
皇帝の妹――皇女フィリア。
彼女は宰相の孫である見習い騎士に想いを寄せていた。
失踪の報を聞いて以来、部屋に閉じこもり泣き続けていたが、
生還の知らせに飛び上がらんばかりに喜んでいる。
「はっ」
宰相は足早に退出した。
エステルが解放した勇者。
それこそが宰相の孫だった。
本来なら自力で脱出するはずだったその歴史は、
エステルの介入によって変えられた。
その影響が未来に何をもたらすのか――
まだ誰にも分からない。
◆◆◆
「さて――我々も食事にするとしようか」
皇帝が手を振ると、料理人が料理を載せたカートを押してきた。
「これは?」
「カレー……ですか?」
閣僚卿たちの鼻を、刺激的な香りがくすぐる。
庶民料理として知られるカレーだった。
なぜ御前会議の席にカレーが?
味は平凡で、
パンにつけるソース程度か、珍味として扱われる料理だった。
皇族や高位貴族の食卓に並ぶものではない。
閣僚卿たちは困惑の表情で皇帝を見る。
「魔族式カレーが開発されたと聞いてな。レシピを取り寄せ、再現してみた。これもロガン伯爵のおかげだ。彼が生還してくれて本当に良かった」
「魔族の食べ方……ということですか?」
魔族の料理。
それは“人間が口にできぬ異形の食”と見なされていた。
「嫌なら食べるな。私一人で食べる」
「い、いえ……そのような」
やがて料理長が銀の蓋を開く。
具材たっぷりのカレー。
白米。多彩なトッピング。
そして――黒い紙。
「……あれは?」
「紙では?」
「魔族は紙まで食べるのですか?」
「それも魔族が開発した食材らしい。帝国沿岸で原料が手に入ったのでな。すぐ皇宮へ転送して作らせた。転送魔法陣は実に便利だ。高価だが、皇帝という立場は悪くない」
一度の使用で莫大な費用がかかる。
だが皇帝の食事のためなら惜しまない。
「さて、いただこう」
皇帝は一口、口へ運ぶ。
「……うむ。実に旨い。ロガン伯爵が絶賛するわけだ」
閣僚卿たちも続いた。
「……!」
「なんと……」
「カレーが、これほどとは」
先入観が崩れる。
「どうだ?」
「見事です」
「なぜこれほどまでに……」
人間の料理が、魔族の手を経て
格段に美味へと昇華していた。
「ちなみに、これを作ったのは魔王妃だ」
「なに?」
「これでもまだ魔族を怪物と呼ぶか? 呼ぶのは自由だが、これを美味いと言いながらはやめてもらいたい」
皇帝の言葉に、閣僚卿たちは口を閉ざした。
「彼女は今、何をしているだろうな。世界を変える計画でも進めているか?」
皇帝は独りごちた。
――その通りだった。
エステルは、歴史を変える大きな瞬間を迎えていた。
成長したエリンとの再会。
◆◆◆
私はエリンをぎゅっと抱きしめる。
今日は、私にとって本当に特別な日になりそうだ。
そんな私を、周囲の魔族たちは不思議そうに見つめている。
翌朝。
本来なら眠る時間。
だがじっとしていられなかった。
少し遅れて眠ればいい。
「さあ、パパに会いに行こう」
よちよち歩くエリンの手を引きながら言う。
驚くほど、歩くのも話すのも上手だった。
赤子の頃に吸収した魔力のおかげで、
周囲の言語体系を自然に習得していたのだ。
成長とともに、十分な会話能力も備えている。
マハトラと廊下で出会った。
「エリン様にお目にかかれて光栄です」
待ち構えていたのだろうか。
「やはり魔王家の正統。純血のエステル様の影響で能力も増幅されておりますな」
まだ子供なのに。
エリンが私の後ろに隠れた。
その視線が嫌だった。
戦士としてではなく、
一人の存在として育てたい。
「エリンの未来はエリンが決めるの。あなたは黙っていなさい」
教育は私が担う。
歪んだ思想は植え付けさせない。
悪循環は断ち切る。
マハトラは一歩退いた。
「承知いたしました」
「行こう」
エリンの手を引き、歩き出す。
廊下で出会う魔族たちが頭を下げる。
「おお、エリン様。ウムカウテ到達、おめでとうございます」
黒髪、黒い瞳。
初代魔王の面影。
誇らしかった。
これまで眠れぬ日々の苦労が、
すべて報われた気がした。
……これが、息子を自慢したくなる気持ちなのね。
執務室へ向かいながら、私は少し迷う。
……もう廊下を一周していこうか。




