第32話 魔王家長男、覚醒の刻――母と呼んだその瞬間、世界が変わる
「くしゃみっ……!」
ヴァンパイアもくしゃみをする時があるらしい。
初めてのことだ。
(誰かが私の噂でもしているのかしら?)
そう呟きながら、
私は両手でベッドを押さえ、ゆっくりと身を起こした。
(本当に……一日ごとに違うわね)
昨日よりも、身体が少し重い。
お腹も、わずかに膨らんだ気がする。
双子が成長している証だ。
私は赤い羽織を肩に掛けた。
ゆったりした作りで、身体を締めつけない。
今の私には、こういう服が一番楽だった。
姿見の前に立ち、全身を確認する。
腹部は自然に隠れ、まだ妊娠は目立たない。
けれど魔族の成長速度を考えれば――
あと一週間もすれば、はっきり分かるはず。
どくん、どくん。
自然と鼓動が早まる。
エリンの時とは違う。
しかも、双子。
鏡を見つめていた私は、やがて部屋を出た。
先のことは、先で考えればいい。
エリンのいる授乳室へ向かう。
時刻は午後四時頃。
ヴァンパイアの感覚ではまだ眠っている時間だが、
今日は特別な日だ。無理をして早く起きた。
今日は――
エリンの“乳離れ”の日。
魔王一族を含む人型魔族に見られる成長段階、
ウムカウテ → テリカウテ → アサカウテ。
その最初の段階、
“ウムカウテ”へ入る日だった。
通常は、乳離れ当日の
午後五時から深夜十一時の間に始まるという。
「これまで本当にご苦労だった」
授乳室に入った私は、乳母たちを労った。
エリンは目を覚ましている間、
絶えず魔力を求め続けた。
その要求に応え続けるのは、簡単な仕事ではなかった。
もっとも、
彼女たちの役目が終わったわけではない。
約三週間後には双子が生まれる。
乳母たちは引き続き、魔王城に待機することになる。
(双子もエリンみたいに、魔力をがぶ飲みするのかしら?)
エリンは“オールラウンド・マジシャン”。
桁違いの魔力量だった。
双子はどんな属性を持つのだろう。
楽しみで仕方がない。
――その時。
私は周囲を見回した。
表情がわずかに強張る。
(魔王は……?)
いない。
今日は重要な日なのに。
あまりにもひどい。
私の顔色を察したのか、
産婆アウラが静かに口を開いた。
「魔王様は急務により、ただいま城を離れておられます」
「……そう」
私は怒りを必死に抑えた。
眠っている間に何か起きたのだろう。
仕方ない。
魔王という立場にある以上、避けられない。
(……それにしても、マハトラもいないのね)
あれほど優秀な魔族だと豪語していた彼なら、
エリンの変化を見たがるはずだ。
城の執事なのだから、常に近くにいるはずなのに。
だがアウラの説明で事情が分かった。
ウムカウテの立ち会いは、家族と養育関係者のみ。
そういう慣習らしい。
(なるほど……)
(マハトラ、今ごろ相当気になってるでしょうね)
厄介者を遠ざけられたのは好都合だった。
正直に言えば、
マハトラは子供たちに悪影響を与えかねない。
エリンにも、これから生まれる子たちにも
近づけるべきではない。
子供は環境に強く影響される。
“周囲の人間”もまた、環境そのもの。
育つ場所の空気が人格を形作る。
歪んだ思考や無礼な振る舞いをする大人が近くにいれば、
影響は避けられない。
(……いつ変わるのかしら)
エリンは眠り続けていた。
眠りすぎではと不安になったが、
ウムカウテ直前にはよくあることだという。
一時間、二時間。
気づけば夜十一時を過ぎ、
時刻はほとんど深夜だった。
だがエリンに変化はない。
アウラが慎重に告げた。
「まれに日付を越えてから変化する例もございます」
その場合、時間は読めない。
夜明けと同時のこともあるという。
(どうしよう)
少し休もうかとも思った。
だが、目を離した隙に始まったら――
私はエリンのそばにいると決めた。
とはいえ、他の者まで付き合わせるわけにはいかない。
「あなたたちは隣室で休んでいい。構わない、下がりなさい」
しかし誰も動かない。
魔王妃が残るのに、自分たちだけ休むわけにはいかないのだ。
(困ったわね……)
強制的に交代制にするべきか。
そう考えた瞬間――
シャァァッ!
まるで幼虫が脱皮するかのように、
エリンの身体が光に包まれた。
私は無意識に拳を握る。
ついに――始まる?
笑い声以外の言葉で、
エリンと話せるようになる?
さらり。
その時、ゆりかごが拡張し始めた。
エリンの成長に合わせて大きさが変わる。
包んでいた産着も変化する。
「……ああ」
息を呑む。
古代ローマの衣装のような服を纏い、
ゆりかごに腰掛ける、五歳ほどの少年。
黒髪、黒い瞳。
魔王の血を濃く継ぐ、長男。
私には見慣れた姿。
だが他の魔族にとっては異質だと聞いていた。
その瞬間。
エリンと、私の目が合った。
「……ママ?」
涙が溢れそうになる。
エリンが、私を見て、そう呼んだ。
澄み渡る声。
これまで聞いたどんな声よりも――
甘く、美しかった。
その一言で、
私は“魔王妃”ではなく――
“母”になった。
エリンが初めて「ママ」と呼んだ瞬間、
エステルは魔王妃ではなく“母”になりました。
家族の物語は、ここからが本番です。




