第2話 魔王城、現実になる瞬間
私はそっと扉を開けた。
きい……
静かな軋みが廊下に溶ける。
顔だけを出して、周囲をうかがう。
いま身につけているのは――
かなり薄手の寝間着姿だ。
ほとんどネグリジェのようなドレス姿で、
さすがにこの格好で外に出るのは気が引ける。
だから、部屋にあった赤いコートを羽織っている。
「……」
人の気配はない。
私は足音を殺して廊下へ出た。
そして――思わず息を呑む。
「わあ……」
どこまでも続く長い廊下。
床には深紅のカーペットが敷き詰められ、
壁には剣や斧が等間隔に飾られている。
さらに、無言の衛兵のように佇む鎧の数々。
まさに――中世の城そのものだ。
しかも、空気が重たい。
張りつめた静寂が、肌にまとわりつく。
「ゲームで見たままだ……」
本当に。
画面の向こうの世界が、
そのまま現実ににじみ出してきたみたいだった。
私は忍び足で歩き出す。
まるで猫のように、
物音を立てないよう、そろりそろりと。
とにかく、外が見える場所を探したい。
この城には――窓がない。
それが妙に気になる。
そのとき。
コツ、コツ。
硬い靴音が廊下に響く。
「やば……」
反射的に身を隠そうとする。
けれど――隠れ場所がない。
どうしよう。
次の瞬間。
メイド服の女性二人と、ばっちり目が合った。
「ひっ!」
「も、申し訳ございません!」
二人は同時にひざまずき、
床に額がつくほど深く頭を下げた。
小刻みに震えている。
「え?」
なんで、そんなに怯えてるの?
……あ。
そうか。
私は魔王妃だった。
この城の主。
隠れる必要なんて、最初からなかったんだ。
「構わぬ。面を上げよ」
……あれ?
思っていた口調と違う。
しかも、やけに冷たい。
どうやら――
エステルとしての話し方が、
無意識に口をついて出ているらしい。
そこでようやく気づいた。
そういえば。
この世界の言葉は日本語じゃないはずなのに、
不思議なくらい自然に理解できるし、話せてもいる。
「そのまま務めを続けよ」
そう言って私は歩き出した。
私が立っている限り、
彼女たちは顔を上げられない気がして。
背後から、ひそひそ声が聞こえる。
「た、助かった……」
「死ぬかと思った……」
「なぜこの時間に……?」
「お姿を拝見するのは初めて……」
……そんなに怖いの?
私は小さく首をかしげた。
それよりも。
さっき気づいたことがある。
メイドたちは――人間だった。
「魔王城に、人間……?」
少し意外だった。
そのとき。
視界の先にテラスが見えた。
「外だ」
私は足早にそちらへ向かう。
扉を開けると――
さあっ。
涼しい風が頬を撫でた。
「はぁ……」
思わず深く息を吸う。
石壁に囲まれた空間にいたせいか、
開けた景色が胸に染みた。
そして。
目の前に広がっていたのは――夕焼け。
広大な森の向こうへ沈みゆく太陽。
まるで絵画のような光景だった。
私はテラスの椅子に腰かける。
「脚、長……」
白く細い脚が、すらりと伸びる。
完璧なモデル体型だ。
でも。
すぐに現実が押し寄せてきた。
「どうしよう……」
ここはゲームの世界。
つまり。
私は未来を知っている。
いずれ勇者が来る。
そして――
魔王城は滅びる。
もちろん。
私も。
「まずい……」
思わず頭を抱えた。
そのとき。
下の庭から声が聞こえてきた。
身を乗り出して覗き込む。
かなり高い。
十階はありそうだ。
下にいるのは――魔物の軍勢。
豚顔の重装兵。
狼の戦士。
イノシシの魔物。
ゲームで何度も倒した敵たち。
しかも。
彼らの鎧には、血がべっとりと付着している。
どうやら戦闘帰りらしい。
さらにその後方。
檻付きの馬車が続いていた。
中には――人間の兵士と、女性。
「捕虜……?」
そう思った瞬間。
最後尾にいた男に、目が止まった。
赤い髪。
三十代ほど。
目を奪われるほど整った顔立ち。
思わず見入ってしまう。
その瞬間。
男がこちらを見上げた。
「え?」
次の瞬間――
風が揺れた。
そして。
気づけば。
その男が、目の前に立っていた。
「っ!?」
驚いて椅子から転げ落ちそうになる。
男は穏やかに微笑んだ。
そして、静かに告げる。
「我が美しき妻よ」
低く落ち着いた声。
「なぜこの時間に外へ出ている」
当たり前のように続けた。
「心配したぞ」
そっと頬に触れる手。
驚くほど優しい温もり。
そして私は理解した。
目の前の男。
この人は――
魔王。
そして。
私の夫だった。




