第26話 魔王妃、倒れる――新たな命の予兆
ロガンは、ある男の名を思い出した。
――カルドシュム伯爵か?
政敵だった。
もし自分がここで死ねば、
あの男が領地を丸ごと呑み込むかもしれない。
自分が最前線で戦っている間も、
背後では刃を研ぐ者がいる。
(力を合わせるべき時に、何をしている……!)
怒りがロガンの胸を焦がした。
その時、
魔王妃が“家族”の話をした。
意外だった。
魔族が家族愛を語るなど。
血も涙もない存在だと思っていたのに。
魔王妃が指先を動かすと、
侍女が書類の束を牢内へ差し入れた。
「捕虜協定を提案する。目を通せ」
「……ふむ」
「基本理念のみだ。
貴殿らの法務官なら、さらに精緻に整えられるだろう」
騎士たちは目を見張った。
「驚いた……どうすればこのような発想が?」
そこに記されていたのは、
捕虜への最低限の人道的待遇。
相互主義。
実現すれば、
戦争の惨禍は確実に軽減される。
「だが、魔族側の捕虜は少ないはず。
魔王妃殿、損では?」
「数は関係ない。
これは双方に利益がある」
魔王妃は静かに続けた。
「さらに協定の締結は、
互いの敵意を和らげる効果もある。
それだけで十分な価値だ」
「……私に何を望む?」
「この協定を帝国皇帝へ届けてほしい。
奴隷制度を廃した皇帝なら、慎重に検討するはずだ」
ロガンは黙り込んだ。
「ロガン伯爵。
無意味に死にたいか?」
「……それは」
家族の顔が浮かぶ。
帰らねばならない。
――扉が開いた。
魔族たちが入ってくる。
人の姿をした者たちだ。
「一日三十分の屋外活動を許可する。
まず兵士から、次に騎士だ。
拘束具は外さん」
兵士たちの顔が輝いた。
地下牢の淀んだ空気から解放される。
「協定に基づく先行措置だ。
締結前だが、我々は先に実行する」
兵士たちは笑顔で外へ出ていった。
その背を見送り、
魔王妃が再び口を開く。
「ただし、無条件ではない」
空気が張り詰める。
「共存共栄と協力を望む文書に署名してもらう」
「――!」
騎士たちの表情が凍りついた。
「署名だと?」
「何もせず死ぬことこそ、
お前の敵の望みだ」
「なぜだ!
和平を望む者が強要をするのか!」
魔王妃の声が冷えた。
「勘違いするな、ロガン伯爵」
静寂。
「私は慈善家ではない」
圧が場を支配する。
「魔王妃として、魔族の利益のために動く。
和平提案は利益があるからだ。
それ以上のことはしない」
甘さはなかった。
「夕食後、考える時間を与えよう」
魔王妃は去った。
残されたのは沈黙。
選択の時間だった。
「どうします……」
「死にたくはありません」
騎士たちはロガンを見る。
やがて一人が叫んだ。
「伯爵様!」
「生きて帰りたい!」
「お願いします!」
書類の裏には誓約書。
関係改善への協力。
そして機密保持。
「この条件なら……」
「だが弱みになる」
「以前は身代金が保証されていたから拒めた。
だが今の我々は違う」
戻ってきた兵士たちの顔は明るかった。
外の空気。
空の広さ。
生きている実感。
やがて香りが漂う。
「……カレー?」
扉が開いた。
「魔王妃様が開発された魔族式カレーです」
彩り豊かなトッピング。
湯気立つ白米。
兵士たちから配られていく。
「うまい……!」
「こんなカレーがあるのか」
さらに――
海苔。
そして醤油。
昼に“黒い紙”と誤解された食材。
騎士たちも食べ始める。
「……うまい」
「信じられん」
涙がにじむ。
生きたい。
その想いが胸の内で膨らんでいく。
食後、
騎士たちも外へ出た。
夕焼けが空を染める。
「これが……外の空気か」
侍女が告げた。
「署名は機密扱いとなります。
帝国へ伝わることはありません」
「脅迫に使うつもりか?」
侍女は淡々と言った。
「では、ここで死にますか」
反論は消えた。
さらに続ける。
「魔王妃様からの伝言です。
『帰郷後、魔族式カレーと“海苔料理”を広めてほしい。
レシピも提供する。
出所を明かす限り、活用は自由だ』」
騎士たちは次々と署名した。
ロガンも――。
***
「驚きました。
あの騎士たちをここまで動かすとは」
ギルガオンが感嘆する。
「味方にする方法は単純よ」
魔王妃は微笑んだ。
「小さな譲歩を積み重ねれば、
最後は大きな譲歩になるの」
――その時だった。
激痛が腹部を貫いた。
「……っ!」
視界が揺れる。
膝が崩れ落ちる。
「魔王妃様!?」
ギルガオンの声が遠のく。
(この痛み……まさか)
記憶が閃いた。
――エリンを授かった、あの夜と同じ。
胸が高鳴る。
だが次の瞬間、
身体から力が抜けた。
廊下の向こう。
こちらへ駆けてくる魔王の姿が霞む。
***
「エステル!!」
魔王は執務室の扉を蹴り開け、廊下を駆けた。
胸騒ぎが止まらない。
嫌な予感が、心臓を締めつける。
視界の先。
床に崩れ落ちる妻の姿。
「エステル!」
抱き止めた身体は、あまりにも軽かった。
冷たい手。
荒い呼吸。
異様に速い鼓動。
「医師を呼べ!!」
怒号が城内に響き渡る。
駆けつけた医師が膝をつき、
素早く脈を取る。
静寂。
永遠のような数秒。
やがて医師は顔を上げた。
そして――
静かに告げる。
「……ご懐妊でございます」
時間が止まった。
魔王の瞳が見開かれる。
腕の中の温もり。
守るべき命が、また一つ増えた。
それは祝福であり――
同時に。
戦乱の時代に生まれる、
新たな“運命”でもあった。




