第25話 敵を屈服させたのは剣ではない――魔王妃の一手
「事情があるので、今すぐ外の空気を吸わせることはできない。だが、まずは食の問題から解決してやろう」
これまで彼らには、餓死しない程度の食事しか与えられていなかった。
まず変えるべきは、そこだった。
おおよその状況を把握した私は、ギルガオンとともに外へ出た。
外に出ると、ギルガオンが私に言った。
「そんな人間どもに配慮して、何の意味があるのです?
帝国も奴らを見捨てたようなものです。助ける気があるなら、とっくに金を送ってきているはずでしょう」
彼の予想は正しかった。
これは帝国が、彼らを意図的に見殺しにしようとしているということだ。
だとすれば、なおさら彼らをそのまま死なせるわけにはいかない。
それこそがゲームのシナリオなのだから。
そんなものに、素直に従うつもりはない。
私はギルガオンに、ゆっくりと説明した。
「私が配慮したいのは、これから先に捕まる魔族の捕虜たちよ。
戦争の様相そのものを変えたいの。
魔族たちも、死ぬまで戦うだけじゃなく、状況が悪ければ降伏すべきだわ」
魔族に“降伏”という概念はなかった。
それに、ごく一部を除けば、人間のように身代金を払って取り戻すこともほとんどない。
「これからは捕虜交換によって、互いに無駄な犠牲を減らせるようになるはずよ」
戦争はどうせこの先も続く。
ならば、まずはこの部分から変えなければならない。
(奴隷として売られてきた女たちの件も解決しなきゃいけないけど……
まずはこっちを片づけてから考えましょう)
優先順位を決めた私は、厨房の扉を開けた。
「ところで、忙しくはないの?」
私は、相変わらずついてくるギルガオンに尋ねた。
彼は護衛のように、ぴったり私のそばに張りついていた。
すると彼は、魔王様が特別に許可してくださったのだと言った。
要するに、魔王が私を心配して彼をつけたのだろう。
そう思った私は、それ以上は何も言わなかった。
「それに、魔王妃様のそばにいれば、新しく作られる料理を食べられますし」
……どうやら、こちらの理由の方が大きそうだった。
その時、私が指示した食材が厨房に運び込まれた。
「えっ?」
ギルガオンが目を丸くする。
「こんなもので、一体何をお作りになるのです?」
彼にとっては、まったく想像もつかない材料だったのだ。
魔族の中でも、西南の海岸に住む一族だけが、たまに口にする食材。
もちろん、彼らにとっても主食ではない。
本当に、ごくたまに食べる程度のものだった。
魔王城では、カレー粉に負けず劣らず、一度も使われず放置されていたそれを、私は選んだ。
「このまま食べれば変でしょうね。でも、少し手を加えれば立派な料理になるわ」
私の言葉に、その場にいた魔族たちは一様に信じられないという顔をした。
「さあ、それじゃ始めましょうか」
◆◆◆
その頃――
地下牢の中では、捕虜たちの間でひそひそと会話が始まっていた。
「さっき、魔王妃とかいう魔族が妙なことを言っていたが……」
ロガンに向かって、向かいの牢の騎士が声をかける。
「ふん。ただの揺さぶりだ。
我々の心を乱そうとしているだけだ。決して乗せられるな」
「はっ!」
だが、身代金が届いていないというのは本当らしかった。
そうでなければ、休戦からかなり時間が経った今も、彼らがここに閉じ込められている理由がない。
次第に、彼らの頭に“死”の文字が浮かび始める。
その時、ロガン伯爵が怒鳴った。
「我らは人間の尊厳と、連合軍としての誇りを保ったまま死ぬのだ!」
「その通りです!」
「人間としての誇りを守らねば!」
二、三人の騎士が唱和し、入口側の兵士たちにも叫んだ。
「皆、聞いたな! 決して魔族どもの言葉を信じるな!」
「了解です!」
「はっ!」
一般兵たちも空気に呑まれ、同じように叫ぶ。
ガチャッ。
その時、扉が開き、顔を覆い、全身を長い布で包んだ女たちが入ってきた。
「女たち?」
「ああ……魔族に連れて行かれた女たちがいたな。あいつらか?」
捕虜として連れて来られた時、別の場所から捕まってきた女たちもいた。
その後どうなったのか分からなかったが、そのうちの何人かのようだった。
彼女たちは無言のまま、カートを押して入ってくる。
「魔王妃様がご用意くださった食事です」
「どうか、ありがたく召し上がってください」
「急ぎ整えたため、このような形になりました。
次の食事では、より食べやすい形でご用意いたします」
「これは、こちらに少しつけて、ご飯と一緒に召し上がってください」
女たちは、それぞれの食器を牢の中へ差し入れた。
三十分後に回収に来ると言い残し、静かに出て行く。
「こいつら……」
皿を見たロガン伯爵の手が震え始める。
「我々を愚弄しているのか!」
「そうだ! こんなものを食えと?」
「食べ物で虐待しているんだ!」
「人間が、どうして紙なんか食える!」
「黒い紙を食えだなんて!」
彼らの目には、見たこともない黒い紙が皿の上に乗っていた。
そこに塩を少しかけた白飯。小皿には黒い液体。
「我々は人間としての尊厳を失うわけにはいかない!」
本音では皿ごと蹴り飛ばしたかったが、魔法で固定された皿は持ち上げるまで動かない。
「紙など食わん! どれほど腹が減っていても耐える!」
地下牢は騒然となった。
だが――看守は来ない。
異様な静けさ。
ごくり。
入口側の兵士の一人が唾を飲み込んだ。
(食べても大丈夫だって……さっきあの女が)
皿を渡した女は、小声で食べ方まで教えてくれていた。
すっ……
兵士は恐る恐る白飯を一口。
――甘い。
適当に炊いた飯ではなかった。
彼は黒い紙――海苔に飯を乗せて巻き、小皿の黒い液体――醤油に軽くつけた。
「何をしている!」
「耐えろ!」
「すごく美味しいです!」
突然の叫び。
「紙じゃありません! 食べ物です!」
他の兵士たちも慌てて真似を始める。
「これにつけると絶品です!」
「わあ……」
「変わった味だな」
騎士たちもロガンの顔色をうかがい始めた。
「伯爵様。一口だけでも……」
やがて騎士たちも口にする。
「……!」
「う、美味い」
皿は瞬く間に空になった。
「今までで一番美味いかもしれん」
「魔族どもが、こんな料理を持っていたとは」
彼らの中で、魔族への見方が変わり始める。
三十分後、女たちが戻ってきた。
「あなたたちの扱いはどうなんだ? 奴隷のように使われているのではないのか?」
ロガンの問い。
女は丁寧に答えた。
「魔王妃様は、人間も魔族も区別なく暮らせる城にしてくださいました。
奴隷として売られてきた私たちを、もはや奴隷ではないと宣言なさったのです。
さらに近いうちに、アトランティス島全域で奴隷制度を廃止されます」
「魔族が……奴隷解放を?」
「また、適切な時期に故郷へ帰してくださると約束してくださいました。
そのためにはロガン伯爵様のお力が必要だとも」
「私の力……?」
「偏見を壊さねば、私たちは安全に帰れません」
ロガンは沈黙した。
◆◆◆
食後。
私はギルガオンと共に、再び捕虜の前へ立った。
「身代金が来ていないというのは……本当なのですか?」
「事実だ」
私はロガンを指差す。
「あるいは――お前に敵が多いのかもしれんな」
ロガンの表情が固まる。
――ビンゴ。
「前にも言ったが、お前にも家族がいるのだろう?
私にも、生まれたばかりの子がいる」
心を揺さぶる。
「魔王妃よ。何を考えている?」
「無意味な戦争を終わらせたい。
そして捕虜協定を結び、敵意と損失を減らす」
「捕虜協定……?」
頃合いだった。
私が合図すると、侍女たちが騎士の牢へ書類を差し入れた。
私が知恵を絞って作り上げた――
戦争の様相を変える、新たな武器の草案だった。




