第22話 魔王が初めてカレーを食べた日
(さて……どんな評価をするのかしら?)
たぶん今ごろ、執務室にもカレーの香りが広がっているはずだ。
この香りは本当に強くて独特。
しかも、誰も食べたことのない味。
もし彼が「実に美味い」と評価したなら――
その瞬間、じゃーんと登場して、エリンと私で作ったのだと自慢するつもりだった。
そんな期待を胸に抱きながら、
私ははらはらした気持ちで、彼が早く一口食べてくれるのを待っていた。
ところが、どうしたことか。
変なのが一匹、盛大に水を差していた。
(門番のくせに、よくも私の料理をあんなふうに言えたものね!)
名前は何だったか聞いた気もするけれど、
ゲーム内での役割は“魔王城の門番”。
これからは、もう門番と呼ぶことにする。
そいつは、人間の食べ物をどうして魔王様へ持っていけるのかだの、
ずいぶんと訳の分からないことを並べ立てていた。
粗探しが好きな奴なのだろう。
生きていれば、ああいうのは必ず一人はいる。
本音を言えば、今すぐ飛び込んで、
“だったらお前には絶対に食べさせない! あげないから!”
と叫びたかった。
でも、ぐっと堪えた。
以前のことを思い出したからだ。
彼は私には優しい。
けれど、仕事中に割って入られるのは別だった。
前に私が会議室へ突撃した時も、
彼の顔は一瞬で厳しくなった。
彼は私の夫であると同時に、
魔族の王――魔王でもある。
そこは理解してあげることにした。
自分の仕事には真摯な男。
それが魔王なのだから。
……なのに、その門番は。
さらに暴言を重ね始めた。
私が苦労して作った料理を、
次々と貶し始めたのだ。
一気に頭のてっぺんまで血がのぼる。
「にゃああああ!」
(そうだよね、エリン。あなたも怒るよね?)
エリンも、ママの料理を馬鹿にされて怒っているみたいだった。
(でもね、パパは執務室に理由もなく入ってくるのを嫌がるの)
私は、なぜ今すぐ飛び込まないのかをエリンに説明した。
子どもだからといって、
理由も説明せずにただ従わせるのは良くない。
どんな些細なことでも、
疑問を残さないよう言葉にして伝えることが大切だ。
――その時だった。
私の耳が、ぴくりと動く。
『いったい誰が作ったのだ! 作った者を今すぐここへ連れてこい!』
――来た!
願ってもない流れだった。
呼ばれたのなら、もう入っても問題ない。
自分から地獄の火を呼び込んだのね。
その炎に焼かれるといいわ!
今の私は、怒りに燃える炎の使者だった。
バァン!
私は勢いよく扉を開け放った。
「誰が私を呼んだのかしら?」
向こうには、魔王の隣に立つ魔族の男がいた。
紫色の髪。
魔王より少し低い背丈。
がっしりした体格。
きゅっと引き結ばれた口元――かなり頑固そうな男だ。
中ボスだったせいで、
ゲームではそこまでじっくり見ていなかったけれど、
イラストの印象とはだいたい一致していた。
「なぜここへ?」
魔王が厳粛な声で問いかける。
今の彼は、優しい夫ではない。
真面目な“魔王”の顔だ。
でも私は素早く自己弁護した。
「この料理を作った者を探していると聞いたので、参りました」
「まさか――」
魔王の目がわずかに見開かれる。
「は?」
門番の奴も、信じられないという顔をした。
ヴァンパイアが料理をしたことが、そんなにおかしい?
……まあ、おかしいのは認める。
私だってそう思う。
でも、本当に作ったんだから仕方ない。
「私と、エリンが作りました」
「なあああ!」
エリンが、まるで私の言葉に合わせるように声を上げた。
本当に息ぴったりの母子だった。
「なぜ料理長をかばおうとしているのかは存じませんが……」
「今、魔王妃である私が嘘をついているとでも思っているの?」
「い、いえ……その……」
第三軍団長ギルガオンの声が急に小さくなる。
「私と、魔王の息子が作った料理だ。
今の発言は、私たち全員を――ひいては魔王を侮辱する行為だぞ」
そう言って、私は料理長へ向き直った。
「言いなさい。これを作ったのが誰なのか」
料理長は勢いよく床へ伏しながら答えた。
「魔王妃様が、魔王様のお食事を作りたいと仰せになり……
エリン様をお連れになって厨房へおいででした」
料理長は、これまでの経緯をすべて語った。
「本当に、あなたが?」
「ええ」
私はカレーライスの乗ったカートを押し、
それを魔王の前まで運んだ。
「私は食べられません。
でも、あなたが美味しく食べる姿を見たいんです」
これを“見ているだけでお腹いっぱい”と言うのだろうか。
まさに目の前でのリアル食レポだ。
食べる側は少し気まずいかもしれないけれど、
妻と息子が見ているのだから問題ない。
「私たちはここで見ています。
あなたが味を確かめ、評価してください。
評価は公正に。本心のままに」
魔王は、料理の蓋をゆっくり開けた。
濃厚なカレーの香りが、さらに強く広がる。
(私から見ても美味しそう……ヴァンパイアで食べられないのが本当に残念)
ああいう固形物を口にすると、全部吐き戻してしまう。
以前、一度だけアーモンドのようなものを口にして、
ひどい目に遭ったことがあるのだ。
どうやらこの世界の設定では、
液体はある程度摂取できても、固形物は難しいらしい。
その時、ギルガオンが困惑した顔をしているのが見えた。
彼は、魔王が何か一言怒るものと思っていたのだろう。
なのに、魔王は“魔王妃が作った”と聞いた途端、
黙ったままその料理を口にしようとしていた。
長年人間と戦ってきた魔王の姿を知るギルガオンにとって、
それはあまりにも意外だったのだ。
だが主君である魔王が匙を取った以上、
もはや彼はカレーについて口を挟めない。
ここでなお料理を非難すれば、
それは魔王への挑戦になる。
じろり。
私が睨みつけると、ギルガオンは小さく身を震わせた。
(本当は“お前は一口も食べるな”って言いたいけど……)
でも、食べ物のことでそこまで狭量なのもどうかと思う。
だから今回は許してやった。
今回だけ。
次はない。
「料理は誰に対しても平等なものだ。
今後、二度とあのような発言はするな。
人間の料理がこの地に渡った時点で、それはもう魔族の料理なのだから」
魔王妃としての、厳かな声が口をついて出た。
「承知しました。では……私も味を見てもよろしいでしょうか?」
「ええ。
ただし、もし人間の土地でこの料理を食べたことがあるなら、
その時の味は忘れなさい。
今これは、魔族の料理として生まれ変わったのだから」
本当は日本式カレーだけど。
まあ、今はそういうことにしておこう。
「粗野な人間どもと違って、見た目はなかなか良いですが……」
魔王が先に一匙すくったのを見届けてから、
ギルガオンもカレーを口にした。
だが彼の顔には、ほとんど期待がなかった。
おそらく彼が人間の酒場や食堂で見かけたカレーは、
いわゆる簡易的な料理だったのだろう。
パンや飯に少しだけかけて出す程度のもの。
本格的なカレー料理は、
“主人公である勇者パーティー”が立ち寄る酒場や食堂にしか存在しないはずだ。
“あの店のカレーは特別に美味しいらしい”
たったその一言のおかげで、
彼らが登場するまでは、他の土地のカレーはせいぜい“変わった料理”程度の扱いだったのだろう。
そして時系列的に言って、
その店はまだ登場していないはず。
つまり今、彼が口にしているカレーは、
この地で私が最初に生み出した“最高級カレー料理”だった。
(私が先に作ってしまえば、
後から人間たちが私を真似することになるのよね。ほほほ)
開発者がイースターエッグとして仕込んだ特別なカレー料理。
その“元祖”の称号は、私がいただいた。
――その時だった。
ゆっくりと、口の中で私の料理を味わっていた魔王が、
驚いたように目を見開いた。
「――!」
その隣で味見をしていたギルガオンの目もまた、
大きく見開かれた。




