第19話 太陽の下の白馬の魔王、そして恋文
ビリッ――!
「う、うぅっ……」
息が詰まるって、こういうこと?
ヴァンパイアになって初めて思い知る、真昼の苦しさ。
額から汗が流れた気がした。
実際には流れていないのかもしれない。けれど、それほどまでに生々しい感覚だった。
「にゃはは」
それでも、エリンは外へ出られて嬉しそうだった。
その顔を見たら、
今さら「やっぱり戻ろう」なんて言えなかった。
一歩。
また一歩。
とりあえず目標は、向こうに見える大きな木。
あそこなら日陰もあるし、少しは楽になれるかもしれない。
エリンと一緒に休みながら、景色を見ることもできる。
普段ならすぐ着くような距離なのに、
今の私は芋虫みたいにのろのろ進むしかなかった。
(……はぁ、生き返る)
木陰に入った瞬間、心の底からそう思った。
葉が生い茂った大木は、まるで屋根のような影を作ってくれている。
おかげで、日差しの苦しさから少し解放された。
「エリン、これが土よ」
私はエリンが手を伸ばせるようにして、地面の土に触れさせた。
小さな手が、そっと土を掴む。
手はあとで洗えばいい。
今はそれより、自然のぬくもりを感じてほしかった。
たぶん、昔の私だったら。
エリンはずっとベビーベッドの上だけで育って、こういうものを何ひとつ知らずに大きくなっていただろう。
その時。
白い蝶がひらひらと、私たちの周りを舞った。
風に乗って、ふわり、ふわり。
エリンは不思議そうに、それを見つめている。
(ここにも蝶がいるんだ)
私も少し驚いた。
ここって魔界の島じゃなかった?
この島が人間界へ移ってきたことで、大陸の虫たちも渡ってきたのかもしれない。
「自然に混ざり合うのね……」
もう、この島も人間界の一部なんだ。
虫たちがこの島に渡ってきて、ちゃんと馴染んで生きているみたいに。
魔族も人間とうまく混ざり合えたらいいのに。
私は涼しい風を受けながら、周囲を見回した。
少し歩けば、小高い丘のような場所もある。
見晴らしも良さそうだし、マットでも敷けば座って休めそうだった。
いつか。
もっと先の未来で。
子どもたちが増えたら――あそこで一緒に休みたい。
「そろそろ戻ろうか」
時間もちょうどいい。
もうすぐエリンに乳をあげる時間だ。
私が遅れたら、向こうで皆が待ち続けることになる。
(……でも、どうしよう)
河原を散歩する時だってそう。
目的地へ向かっている時は楽しいのに、帰る時になると――
“なんでこんな遠くまで来ちゃったんだろう……”
って後悔する。
今がまさにそれだった。
ほんの少しの距離なのに。
今の私にとっては、マラソンと同じくらい遠い。
(……そういえば、魔王はどこへ行ったの?)
外へ出た瞬間から、魔王の気配は消えていた。
尾行終了?
それとも本当に忙しくて戻ったの?
少し――ほんの少しだけ、寂しかった。
「……よし、行こう」
私は無理やり笑って歩き出そうとした。
でも。
さっきより、日差しがさらに強くなっている気がした。
たった一歩進んだだけで、
日傘を持つ手が震える。
全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
(“日差しに耐えられる”って……ほんの少しなら、って意味だったのね)
私が思っていた“耐えられる”とは違った。
昔のエステルが、日傘も日焼け止めもほとんど使わず放っておいた理由が、今なら分かる。
そして昔の私は、魔王とゆっくり話すこともなかったはずだ。
だから、日傘や日焼け止めを使っても大した意味がないことを、魔王に伝えていなかったのかもしれない。
(だから魔王は、私を尾行していたの?
私が日傘を持っていたから……)
本当に、私が日差しに耐えられるのか。
それが気になっていたんだ。
(無事に歩いていくのを見て、安心して戻ったってこと?
……まだ安心するのは早いんだけど)
エリンを連れているから、なんとか平然と歩いていたけれど。
実際は、いばらの道を歩いているようなものだった。
しかも今は、ほとんどエネルギー切れ。
(うぅ……どうしよう)
進むことも、戻ることもできない。
そんな状態に陥った、その時だった。
向こうから、大きな白馬が現れた。
手入れの行き届いたたてがみ。
そしてその背には――
白馬の王子様……ではなく、魔王がいた。
ヒヒィン!
大きな馬が鼻を鳴らしながら、私の前まで来る。
「大丈夫か?」
「だ……大丈夫、です」
私は無理やり笑って答えた。
まったく大丈夫じゃない、という意味で。
「これを着るといい。中まで乗せてやろう」
馬から降りた彼が、くるくる丸めた布を差し出した。
広げてみると、全身を覆って目元だけを少し出す服だった。
中東のニカブみたいな形に近い。
(……これなら、かなり違うかも)
私は急いでそれを身につけた。
(わあ……生き返る)
体を覆っただけで、ずっと楽になった。
まるで頑丈な鎧を着たみたい。
太陽という矢が、もう私を貫けない。
魔王は私を抱き上げて、馬の上へと乗せた。
カチッ。
まるで自動で安全ベルトが締まるみたいに、
私の足が鞍へ固定される。
落ちる心配はなかった。
私がしっかり固定されたのを確認すると、魔王は馬を引きながらゆっくり歩き始めた。
生まれて初めて乗る馬。
不思議だった。
エリンも初めての馬が珍しいのか、嬉しそうに笑っている。
私も同じだった。
ほんの短い距離なのに、こうして馬で戻るだけでずいぶん楽だった。
「危険だ。今後は真昼に外へ出るのは控えなさい」
「はい。そうします」
私も今回、とても良い勉強になった。
自分がヴァンパイアであることを、時々忘れていたけれど。
今日はそれを嫌というほど思い知らされた。
「でも、どうして私がここにいるって分かったんですか?」
ふと意地悪な気持ちになって、私は尋ねた。
「執務室の窓から、偶然そなたとエリンが見えたのだ」
彼は前を向いたまま答えた。
……ほんとに?
私の前だと表情に出るから、適当に誤魔化してるんじゃないの?
ふふっ。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。かなり困るところでした」
私は素直に礼を言った。
日差しはまだ強い。
それでも、私はこうして無事に戻って来られた。
「さあ、気をつけて」
彼が手を差し伸べ、私を馬から降ろしてくれる。
緊張が解けたせいか、少しふらついた。
でも彼がしっかり支えてくれたから、倒れはしなかった。
魔王は私を抱き留めたまま言う。
「今後は無理をするな」
「はい。気をつけます」
彼に少し体を預けたままの私。
まるで映画のワンシーンみたいだった。
(……今、胸が高鳴ってる?)
不思議だった。
今の私はヴァンパイア。
本来なら、こんなふうな鼓動なんて感じないはずなのに。
「この服、いいですね」
私は頭を覆っていた部分から外し始めた。
室内では少し息苦しいけれど、外ではものすごく便利だった。
「では私は――」
「どこへ行くんですか?」
私は魔王を引き止めた。
この人、ちょっと油断すると、すぐ行ってしまう。
「エリンと握手してから行ってください」
エリンがまた手足をばたばたさせ始めた。
「元気に育っているな」
魔王はそっと手を伸ばし、エリンの指先に触れた。
その光景を見て、私はとても満たされた気持ちになった。
前に比べれば、魔王もずいぶん良くなった。
こうやって少しずつ。
魔王の“赤ん坊苦手症”を治していけばいいのだ。
その時、ガーディアンたちがやってきた。
その手には移動式のベビーベッドがあった。
「あとで一度寄る」
「本当ですか? 絶対ですよ」
彼は忙しいらしく、また執務室へ戻らなければならないらしい。
でも、あとで来るという約束はしてくれた。
魔王が戻ったあと、私はガーディアンたちと一緒に授乳室へ向かった。
忘れないうちに、私は先に指示を出しておく。
「以前、私の侍女だった者たちを呼んで」
料理長から聞いた話が本当かどうか、確かめる必要があった。
エリンに乳をあげ終えたら、事情を聞くつもりだった。
「新しい執事に変わって、不便になったことがあるなら、遠慮なく言うように」
昔の侍女たちに、最近の状況を尋ねた。
エリンはたっぷり乳を飲んで眠っていて、
インキュベーターが動いていたから、少しくらい話しても起きる心配はない。
「その……」
彼女たちは少しためらったあと、今の状況を話してくれた。
料理長の言葉は本当だった。
私は、これからも以前と同じ待遇を受けられるようにするから安心しなさい、と伝えて彼女たちを下がらせた。
彼女たちが出ていくと、部屋の中に静けさが広がる。
乳母もガーディアンも、みんな外へ出た。
この場にいるのは、私とエリンだけ。
エリンが乳離れするまでは、ここが私の拠点だった。
「はあ……疲れた」
私は軽く伸びをした。
人間でいえば、ちょうど徹夜したようなもの。
そろそろ夕方が近づいてきて、
本来のヴァンパイアなら起きる時間のはずなのに。
私はひどく眠くなっていた。
朝、一度寝ようとしたけれど、
エリンを見に来るせいで、結局まともに休めなかったのだ。
さすがに体力の限界らしい。
「エリン、ママもちょっと寝るね……」
私は授乳室の簡易ベッドに横になった。
エリンが寝ている間に、自分も寝なくては。
でないと、あとで本当に寝る時間がなくなる。
エリンの泣き声――
あのサイレンが鳴って、また叩き起こされるだろうから。
そして今度は、本当に深い眠りに落ちた。
それまで溜まっていた疲れが、一気に押し寄せてきたのだ。
◆◆◆
(……あれ? どれくらい寝たんだろう)
私は目を開けた。
真っ先に、エリンのいるベビーベッドを見る。
「にゃはは」
私が起き上がったのを見て、
エリンが笑いながら手を振った。
「いい子ね、エリン。ママが寝てても泣かなかったのね」
私はエリンを抱き上げた。
前なら、私が見えないだけで泣いていた。
でも今は違う。
私が疲れて眠っているのを分かって、
起きるのを待っていてくれたみたいだった。
「すごく長く寝た気がする……どれくらい寝てたの?」
徹夜したあとに一日中寝たような、そんな感覚。
疲れがすっかり抜けていた。
(……あれ? これ)
ベビーベッドの横に、手紙が置いてあった。
魔王からの手紙。
私が眠っていたから、起こさず置いていったのだろう。
私は指先で手紙を軽く押さえた。
「スマホがない時代のロマンって、こういうことなのかな」
スマートフォンがあれば、メッセージアプリで済むだろう。
でもここにはそんなものはない。
だからこそ、直筆の手紙が残される。
(……何て書いてあるんだろう)
もう結婚しているのに、
まるで恋愛の最中みたいな気分だった。
封を開ける。
(……ほう)
“美しき我が妻へ。そなたがいるだけで一日が幸せだ”
そんな書き出しから始まる魔王の手紙は、
まるで昔の恋愛映画に出てくるラブレターみたいだった。
「もう……本当に。この人……いや、この魔族。ほんとに魔王なの?」
読んでいて気分はいいのに、
こっちが恥ずかしくなって手足がむずむずする。
(それで……“しばらくは処理すべき仕事が多く、会いに来るのは難しい”か……)
魔王は忙しい。
休戦状態になって魔王城へ戻ってきても、
あちこち動き回らなければならない。
他種族の長たちとの会議もあるし、
何より魔族には夜行性の一族も多い。
代表的なのが、私と同じヴァンパイア一族。
「はあ……残念」
私は壁に背を預けた。
決して――
“伝統的な方法”をしばらく彼と共有できないから、ではない。
……いや、少しはそうかもしれないけど。
手紙を読み終えた私は、
それを授乳室の引き出しに大事にしまった。
彼が私に直接書いてくれた手紙。
大切に保管するつもりだった。
(要するに、しばらく会いに来るのは難しいことと、今の私がすごく良いってことよね……)
昔のエステルだったら、
戦から戻ってきた魔王にもきっと冷たかったはずだ。
もしかしたら私の変化は、
子供たちだけじゃなく、魔王にも大きな影響を与えているのかもしれない。
「疲れてはいないけど……寝てみようかな」
エリンはまた眠っていた。
私とは正反対の睡眠時間。
なら、どうにかして私もエリンと睡眠リズムを合わせなきゃいけない。
そして、その必要もある。
(魔王が来られないなら、私が行けばいいだけよね。何が問題なの?)
単純明快な解決策だった。
エリンを連れて魔王の執務室へ行く!
それに、その前に。
明日――いや、もう今日か。
昼食は私が直接作る。
魔王がそれを食べて、どんな評価をするのか。
すごく気になった。
本当に、頑張って作らなきゃ。
私は授乳室のベッドに横になり、目を閉じた。
眠気はすぐには来なかったけれど、
無理やりでも眠ろうとした。
(うぅん……ちょっと気分が悪い。お腹が空いてるわけじゃないのに、なんでだろう? 吸血してないから?)
以前吸血して以来、一度も血を吸っていない。
ステータスを確認しても、
体力や健康状態を示すHPには特に問題がなかったから、
あえて吸血はしなかったのだ。
少しすると気分の悪さも消えたので、
私は再び目を閉じ、眠りに落ちた。
夢の中で、私は何かに乗って空を飛んでいた。
以前夢で見た、あの華やかな鳥だった。
不思議だった。
夢の中で見た鳥に、また会えるなんて。
まるで伝説のフェニックスのような姿。
豪奢な翼が大きく広がり、本当に美しい。
やがてその鳥は私を高い峰へ降ろした。
そして挨拶するように、
くちばしで私の頬をすりすりと擦りつけてきた。
どうしたの?
まさか、名前をつけてほしいの?
はっきりした性別は分からないけれど、
なぜか女の子っぽい気がした。
それなら、君の名前は――
そう名付けようとした瞬間、
私は目を覚ました。
「……あ。不思議な夢」
私は伸びをしながら起き上がった。
エリンは静かによく眠っている。
最近、エリンの睡眠時間がぐっと伸びた気がする。
……あれ、少しずつ大きくなってる?
赤ちゃんは寝ている間に育つ、っていうし。
このまま一気に大きくなるのかな。
私はエリンの様子を確認してから、
軽く身支度を整え、今日の予定を考え始めた。
さあ――いよいよ今日。
魔王に食べさせる料理を作る日だ。
あの時、食材を見た時に
いくつか目をつけておいたものがある。
その中から選べば、
きっと美味しい料理が作れる。
いや。
美味しいだけじゃダメだ。
最高の料理を、作らなくちゃ。




