第16話 甘い朝と、運命の匂い
細く開いた瞼の隙間から、朝の光が差し込んできた。
スイートルームの大きな窓の外には、雲ひとつない青空が広がっている。
澄み切った、爽やかな朝だった。
空気も澄んでいて、実に気持ちいい。
(……もう少しだけ寝よう)
そう思ったのに――
私は深く眠ることができなかった。
(痛い……)
全身を、細い針でちくちく刺されるような痛み。
少し経てば治まると思っていた。
だが違った。
むしろ時間が経つほど、刺激は強くなっていく。
ばさっ。
思わず隣の毛布を引き寄せ、
繭みたいに体をぐるぐる包み込む。
……今の私、ちょっと変な姿かも。
丸まった毛布の隙間から、
銀色の長い髪だけがぴょこんと飛び出している。
でも――
寝起きのだるさを知っている人なら、この気持ちは分かるはずだ。
横になったまま起き上がるのって、
どうしてこんなに重労働なの。
手の届く範囲のものを総動員するしかない。
……って。
(え? 体が浮いてる?)
次の瞬間。
魔王が、両腕で私を軽々と持ち上げていた。
「……いきなり毛布を奪うから、朝から夫婦の時間かと思ったぞ」
どうやら私が無意識に毛布を引きはがしたせいで、
彼を起こしてしまったらしい。
「隣に小さな寝室がある」
そこは遮光された暗室だった。
……私のために用意された空間?
彼は私をそっと一人用ベッドに寝かせる。
私は干物みたいに、ぐったり体を伸ばした。
(このままでいいです……)
指一本動かす気力もない。
「やはりヴァンパイアは朝日に弱いか。
窓のある部屋は……考えものだな」
いや。
原因は朝日だけじゃない。
少なくとも七割は、あなたのせいなんですけど。
でも言い返す気力もなく、私は黙った。
「ゆっくり休め」
額に軽く口づけを残し、魔王は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に静かな闇が広がる。
完全な暗闇ではない。
淡い光が差し込む、洞窟のような優しい闇。
……まるで故郷で、日差しを避けていた洞穴みたい。
不思議と、心が落ち着いた。
暗闇の中で、私の目はよく見える。
わずかな光さえあれば、周囲ははっきり捉えられた。
するり。
丸まった毛布をほどく。
滑り落ちた布の下から、素肌が露わになった。
無駄のない滑らかな白肌。
透き通るほど白くて、少し青白く見えるほどだ。
背は高く、体は細く整っている。
(モデル体型って、こういうこと?)
人間じゃないけど。
そこはもう、気にしないことにした。
枕を探して顔を横に向ける。
ベッド脇の棚の上にあった。
寝転んだまま手を伸ばし、引き寄せる。
頭を乗せた瞬間、ふわりと沈む柔らかさ。
……昨日の夜。
この枕は“別の用途”で大活躍だった。
(体力ゼロなの、魔王のせいだよね……)
本来、私は夜行性。
太陽が昇れば眠るのが普通。
ちゃんと寝ようとした、その時。
「……はっ」
勢いよく起き上がる。
がたん。
バランスを崩して床を転がった。
ちょっと痛い。
でもおかげで目が覚めた。
「エリン、大丈夫かな……」
昨日、乳母に預けてから会っていない。
今頃お腹を空かせて泣いてるかもしれない。
赤ん坊の泣き声は“言葉”。
無視していいはずがない。
幼少期の体験は、将来を形作る。
(放っておいたら……
ゲームみたいに闇堕ちボスになるかも)
この世界は、決められた未来へ進んでいる。
慣性の法則みたいに。
なら――
私はその未来を変える“外力”だ。
自分の手で未来を変えたい。
この子たちに、別の未来を見せてあげたい。
授乳室に入ると、乳母たちが立ち上がろうとした。
私は手で制した。
彼女たちは二人一組。
一人が授乳、もう一人が待機。
万一に備えた体制。賢明だ。
私が入ると、エリンの視線がこちらへ向く。
手足をばたつかせ始めた。
私に来ようとしているみたいだ。
もう姿が見えないだけで泣くことはない。
それだけでも大きな成長だった。
「ご苦労だった。今回の授乳が終わったら、あとは私が見る。休め」
言い方が少し強くなった。
でも不思議と、エリンは暴れるのをやめた。
……分かってる?
まさか、うちの息子――天才?
誇らしい気持ちが湧いた。
「魔王様は来られたか?」
「いえ、まだ」
……来てないの?
あんなに甘いこと言ってたのに。
息子の顔も見ずに行くなんて。
魔族の思考は、まだ分からない。
やがて乳母と交代。
魔力吸収は終了済み。
次までは数時間ある。
魔王の魔力液は分けて飲み、
体内で安定するのを待つ。
急ぐと体に負担がかかるらしい。
(じっとしてるの、性に合わないな)
私はエリンを連れて城内散策を決めた。
ベビーバスケットを持ち上げる。
カチッ。
肩ベルト固定。
さらに腰も固定。
完全自動ベビーキャリアだ。
「城を見て回ろう」
エリンが嬉しそうに動いた。
廊下を進む。
やがて分かれ道に出た。
廊下の分かれ道で、私は足を止めた。
右か、左か。
少し迷った末、私は右へと曲がる。
図書室かもしれない。
武器庫かもしれない。
それとも――城の外へ続く門かもしれない。
外へ出られるなら、それが一番いい。
せっかく選んだこの日傘を使えるのだから。
その時だった。
ふわりと――
どこからか、不思議な香りが流れてきた。
思わず、鼻がひくりと動く。
(……なに、この匂い)
甘くて。
香ばしくて。
それでいて、どこか温かい。
この城には似つかわしくない香り。
魔力の匂いでもない。
薬品の匂いでもない。
花の香りとも違う。
なのに――
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
懐かしい。
そう感じた自分に、戸惑う。
(懐かしいはず……ないのに)
私はヴァンパイア。
血を糧とする一族。
本来なら――
こんな匂い、分かるはずがない。
気づいているのは、私だけ。
足が、勝手にその香りを追い始める。
胸の奥に眠っていた“記憶”が、静かに目を覚ましていた。
前世で。
当たり前のように囲まれていた匂い。
毎日のように触れていた空気。
忘れるはずがない――
人間として生きていた頃の記憶。
そして私は、確信した。
この匂いの正体を。
本来の私なら、決して分からない。
けれど今の私は違う。
なぜなら――
私は転生者だから。
これは。
“料理”の匂いだ。
そしてその先に――
城の奥深くに、調理室がある。




