第14話 魔王と二人きりの夜が始まりました
「きゃっ!」
突然、後ろから抱きしめられて、私は思わず悲鳴を上げた。
振り返ると――
そこには魔王が立っていた。
(魔王じゃなくて忍者なの?
なんでこんなに突然現れるのよ)
人を驚かせるのが得意なのだろうか。
私は軽く体をひねり、魔王の方へ向き直った。
魔王が現れた瞬間、周囲にいた者たちは一斉に頭を下げ、静かに距離を取る。
気がつけば――
この場に残ったのは、
私と魔王。
そして私の腕の中にいるエリンだけだった。
夕焼けの光を浴びて、魔王の赤い髪がいっそう鮮やかな紅に染まっている。
染めた色ではない。
生まれつきの、天然の赤だ。
長年の戦いと鍛錬で鍛え上げられた身体は、圧倒的な迫力を放っていた。
けれど、ただの筋肉の塊というわけでもない。
小さな顔に整った体格。
どこか高級ブランドのモデルのような雰囲気さえある。
普段は冷たい空気をまとっているのに――
私の耳元で囁く時だけは、いつも優しく微笑むのだ。
正直なところ。
もしここで鎧を着せたら、
RPGに出てくる勇者そのものだった。
そして私は、その勇者の隣にいるヒロイン。
……そんな構図に見えなくもない。
(……で、何を話せばいいのよ)
そう思った、その時だった。
腕の中のエリンが、手足をばたばたと動かし始めた。
「にゃあ……」
小さな声で何かを訴えている。
――父親に気づいたのだ。
私はエリンを少し持ち上げ、魔王へ差し出した。
だが。
魔王は、わずかに一歩後ろへ下がった。
(え? なんで?)
「魔王の子は、強くあらねばならぬ。
このように甘やかしてばかりではいけない」
ぴきっ。
私の表情が固まる。
(はああ!?)
「それはダメです」
思わず強い声が出た。
「そんなことをしたら、子供に絶望感を植え付けることになります」
幼い頃の経験は、成長に大きな影響を与える。
こんな対応をしていたら――
エリンも大人になった時、
同じことを自分の子供にしてしまうかもしれない。
そんな悪循環は、絶対に止めなければならない。
「手を伸ばして触ってください」
私は魔王を見つめた。
「今、エリンが望んでいるんです」
魔王はちらりと周囲を見た。
「お前たちは下がれ」
その一言で、周囲の者たちは静かに階下へと退いていった。
残ったのは――
私たち三人だけ。
魔王はエリンを見つめながら、ゆっくりと手を伸ばす。
(……緊張してるの? まさか)
まるで――
ミケランジェロの「天地創造」の一場面のようだった。
次の瞬間。
エリンが手を伸ばし、魔王の指をぎゅっと握った。
「きゃはは!」
エリンが楽しそうに笑う。
その様子を見て、私は思わず微笑んだ。
ぼんやりしている魔王に向かって言う。
「上手じゃないですか」
「忙しいのは分かりますけど、たまにはエリンに会いに来てください」
「私一人で育てるのは、かなり大変なんです」
睡眠リズムまで違うのだから。
「乳母がいるだろう」
「もちろん助かってます。でも――」
私は少し甘えるように言った。
「やっぱり、お父さんとお母さんがそばにいてあげないと」
魔王はしばらく考え、ゆっくりとうなずいた。
「そうしよう。
できる限り努力する」
それは、確かな約束だった。
「にゃにゃ!」
エリンが嬉しそうに声を上げる。
母と父と一緒に――
この“空の海”にいられる。
そんなふうに喜んでいるように見えた。
「ここは、君が一番好きな場所だ」
魔王が静かに言った。
「私が出征する前、最後に君を見たのもこの場所だった」
私は何も言わなかった。
覚えていないからだ。
「雲の多い日には、あちらに雲の海ができる。
君はそれを見て、故郷を思い出しているようだった」
エステルの故郷は、険しい高山地帯。
確かに、似ているのかもしれない。
(やっぱり前の私は、かなりのホームシックだったんだな)
「それから――」
魔王が、そっと私の手を取った。
「ここで謝らせてほしい」
(謝る? なにを?)
「一族の最高会議で、君と結婚すれば強い魔族が生まれると言った」
その言葉は、ぼんやりと記憶に残っていた。
あまりの衝撃に、
魔王を酒で酔わせようとしたほどだ。
……そして、その結果がエリンだった。
「それを言わなければ、会議を説得できなかった」
つまり。
私との結婚には、
彼自身の一族の説得も必要だったということだ。
(……私の結婚、そんなに大変だったの?)
「改めて、すまない」
「大丈夫です」
私は小さく笑った。
「その時は、そうするしかなかったんですよね」
「結婚してすぐ戦争が始まり、
私は一年も君をここに残した」
「……そうですね」
魔王は私を見つめた。
「だが良かった。
君の瞳から、あの闇が消えて」
「この一年で、何があった?」
「……」
私は答えなかった。
記憶がないから。
そして――
思い出したくもなかったから。
「この城の自然が、君を変えたのかもしれないな」
(それでいい)
そう思ってくれるなら。
その時だった。
さっ。
魔王が突然、自分の外套を脱いだ。
そして、私の頭上に広げる。
次の瞬間――
ざああああっ!!
突然の雨が降り始めた。
城の中では気づかなかったが、
この場所の天気はとても気まぐれらしい。
だが。
魔王の外套は、まるで魔法の傘のようだった。
私とエリンの周囲だけ、雨が弾かれている。
「雨ですよ。
もう戻りましょう」
私は言った。
私とエリンは濡れていない。
けれど――
魔王の背中は、雨で濡れていた。
それでも彼は動かなかった。
そして、私の耳元で静かに囁いた。
「結婚してくれて、ありがとう」
その言葉が、胸に突き刺さった。
この人は――
本気だった。
魔王の地位のためでも。
強い子供のためでもない。
本当に――
私を選んだのだ。
その時。
まるで嘘のように雨が止んだ。
魔王は外套を下ろし、
そっと私の肩に手を置いた。
「この下の階に、君と私の休憩室がある」
「君が窓のある部屋を嫌って、
一度も使わなかったが……」
「今なら、使えるだろう」
彼は自然に私の手を取り、歩き出した。
そこは――
景色の良いスイートルームだった。
広い窓。
アンティークの家具。
白いベッド。
まるで、ヨーロッパの古城で過ごす
新婚旅行のような部屋。
ロマンス映画なら――
ここで物語は終わるのだろう。
魔王と、愛する妻。
そして、小さな息子。
夕焼けに染まる城の最上階。
静かな幸せに満ちた時間。
まるで、
すべてが幸せに満ちているような光景だった。
だが――
私たちの物語は、まだ始まったばかりだった。
そして私は、この時まだ知らなかった。
この夜が――
魔王妃としての人生の、
本当の始まりになることを。
そして同時に。
この城に訪れる
“破滅の未来”を変える戦いが
ここから始まることを。




