第13話 夕焼けの塔で、魔王に抱きしめられました
「結婚と、俺の支持のために動いてくれたこと――それは感謝している」
過去の記憶を整理し終えた魔王が、マハトラにそう告げた。
彼とその一族が、どうやってヴァンパイアたちとの交渉をまとめたのかは知らない。
だが魔王にとっては、それ以上ない成果だった。
「その後も、正直かなり大変でしたよ。ようやく結婚できたと思ったら、今度は戦争が起きなくて……。そのせいで、私がこちらへ執事として赴くのも遅れました。ですが――」
マハトラは、眩しいほどの笑みを浮かべる。
「本当に、この城の執事になって良かったと思っています。期待はしていましたが、時間が経つにつれて……正直、その期待も薄れていたんです。けれど今日、考えが変わりました。期待以上でした」
「何を言っているのか分からんな」
「結論としては――執事の役目を、忠実に果たすという意味です」
マハトラは手を下ろし、丁重に一礼した。
「新しく到着した乳母たちの様子を見に行ってもよろしいでしょうか」
許可を得ると、彼は部屋を出た。
「ふふ……次はどんな面白いことを見せてくださるのやら。魔王妃様……」
彼女の姿は、あまりにも予想外だった。
事前に集めた情報と、まるで違う。
だからこそ、エステルという存在が気になって仕方がない。
もちろん――機嫌を損ねたり、距離を誤れば。
今度こそ魔王の手で殺されるだろう。
だが、その綱渡りこそが、むしろ愉しい。
カチリ。
授乳室へ向かう途中、マハトラは分厚く封印された扉を開け、中へ入った。
目の前には、薬瓶が五十本ほど。
あらかじめ魔王の魔力を抜き取っておいたものだ。
授乳室へ持っていくため、そこから五本ほどを手に取る。
扉を閉めながら、彼はぽつりと呟いた。
「エステル様が優秀な魔族を産んでくださること――その一点に限っては、私と目的は同じです。だから心配なさらず。どうか……エステル様との間に、これからもたくさん子を成してください」
そして彼は、何事もなかったように無表情へ戻り、授乳室へと向かった。
――彼は、一体何を考えているのか。
◆◆◆
乳母が二人、挨拶をして部屋を出ていった。
よかった。今回は「授乳できない者」が一人もいない。
前回は三人も出たのに、今回は全員合格だ。
「お腹いっぱい?」
私はエリンを軽く揺らしながら言った。
いったい何時間飲ませていたんだろう。
自分でも分からない。
「……はぁ。ほら、このお腹」
お腹だけがぽこん、と出ているのが不思議だった。
でも、あれだけ飲んでこれだけ? ……足りないの?
いや、食べたのは魔力だ。
満腹感とは別のはず――
じゃあ、なぜお腹が出てるの?
まったく影響がないわけじゃなく、少しはある……のか?
私はエリンの口元をじっと見つめた。
(最初はちょっと変だったけど、すぐ戻った。よかった)
魔力を吸っている最中、エリンの口の周りが一瞬だけきらりと光ったのだ。
「何だろう」と思ったが、その後むしろさらによく飲み始めたので、問題ないと判断した。
むしろ――飲み過ぎが心配だ。
でも、過食で苦しそうにも見えない。
何かあれば魔王が飛んでくるだろうし、そこは安心だった。
(……眠い)
眠気が、どっと押し寄せた。
目を開けているのすらつらいほどの眠気。
こんなの、初めてだ。
私はエリンを赤ん坊用のバスケットに戻し、隣のベッドに体を預けた。
少しだけ……少しだけ目を閉じよう。
――その瞬間。
私は落ちるように眠り、夢を見た。
(わあ、すごい)
私は空を飛んでいた。
魔王城の真上を――!
まるでティンカーベルみたいに、城の周囲をぐるぐる旋回しながら滑空を楽しんでいた。
エエエエエン!
エエエエエン!
……え? 何? 火事?
サイレンが鳴り響いた。
ハッ。
私は目を覚ました。
ほんの一瞬目を閉じただけなのに、夢を見た――?
「大丈夫? どうしたの?」
さっきまであんなに飲んでたのに、またお腹が空いた?
……いや、違う。
私を見るなり、エリンが手足をばたばたさせて、にこっと笑ったのだ。
「よしよし、いい子」
遊んでほしいのかな。
そんな感じがした。
「エリン……ママ、すごく眠くてさ。ちょっとだけ寝るね」
このバスケットはよく出来ていて、エリンが苦しくないように調整されている。
万が一危険があれば、防護の魔法も発動する。
だから安心して、壁にもたれて仮眠しようとした。
「エェェェン、エェェェン!」
また泣いた。
(うぅ……エリン。ママは日が昇ると、本当に眠くなるの……)
この子は父の血筋で、夜に眠って昼に動く。
でも私はヴァンパイア。昼に眠り、夜に動く。
多少は耐えられる。
けど、昼に一睡もせず何時間も起き続けるのは――きつい。
少しでも眠れたら……。
「エェェェン、エェェェン!」
でも、私が視界から消えると泣き続ける。
私は結局、起き上がった。
疲れすぎて、目がじんわり腫れてきた。
(母さん……どうやって私を育てたんだろ)
私は魔法と乳母で多くを補っている。
それでも育児は簡単じゃない。
なのに母は、そんなもの無しで私を育てたのだ。
(……こうすればいい?)
私はバスケットを持ち上げ、エリンの視界に私が入るよう角度を調整した。
しっかり固定されているから安全は確保。
さらに、私がうっかり押しつぶさないよう距離も取った。
寝ている間に赤ん坊を押してしまう事故――それだけは絶対に避けないといけない。
安全第一だ。
「よし。これなら見えるよね? ママ、どこにも行かない」
簡易ベビーカーみたいになった。
私は視線を確保したまま、エリンの手を握る。
「ママがヴァンパイアでごめん。昼にずっと起きてるの、つらいんだ」
そう言って、私は壁にもたれて眠った。
今度はサイレンの夢は見なかった。
代わりに――
向こうの空から、火花を散らす巨大な鳥が現れて、私の頭上へ落ちてくる夢を見た。
ハッ!
勝手に目が開いた。
「なに……なに?」
変な夢だった。
しかも、夢にしては妙に生々しい。
その時、エリンがいた。
目が合うと、遊んでと言わんばかりに手足を振る。
「ありがとう。おかげでママ、ちゃんと眠れた」
私はエリンをそっと抱き上げた。
意外とぐっすり眠れた気がする。
三時間、いや四時間くらい寝たかも――その間、泣かなかった。
私が見える位置にいたから……?
そして、今回ようやく分かった。
赤ん坊と睡眠リズムが違うのは――本当にきつい。
(どうにかして合わせる方法、ないかな)
私が「日が出たら寝る」側なのに、
子どもたちには「夜に寝て朝に起きろ」と言うのも難しい。
種族の性質はある。
でも、まだそんな理屈が通じない年齢だ。
その時、エリンの喃語が聞こえた。
泣いてるわけでもなく、笑ってるわけでもない――不思議な声。
でも抱きしめていると、分かってくる。
言葉はなくても、目や仕草で「やりたいこと」が伝わる。
「魔王城を見て回りたいんだね。よし、探検しよう。……あれ、これどうやるんだっけ?」
私はエリンをバスケットへ戻し、慎重に持ち上げた。
シャッ。カチッ。
安全ベルトのように体が固定される。
落下防止の仕組みだ。
(ちょっときつくない? 大丈夫かな)
赤ん坊の肌を傷めないよう、圧迫具合を確認する。
まるでAIが測ったみたいに、ちょうどいい具合に調整されていた。
魔王城見学。
ママが連れてってあげる。
――のはずが。
部屋を出た私は、くるくる回り始めた。
……道が分からない。
見学どころか、迷子である。
護衛の三人のガーディアンは、まだそれに気づいていないらしい。
その時、かつて私の世話をしていた侍女の一人と鉢合わせた。
首筋を差し出した事件と、
「昔の私」がやっていたことを知ってから、顔を合わせるのが気まずかった。
だから私は彼女たちを休ませ、一般侍女へ配置転換し、
代わりにガーディアンの魔族女性を周囲に置いたのだ。
……でも今は、彼女の助けが必要だった。
彼女の案内で、私は城の中央ホールへ向かうことができた。
(さて、どこへ行こう)
少し悩んだ。
その時、以前見た夕焼けを思い出した。
エリンにも、外の美しい夕焼けを見せてあげたい。
「今、時間は?」
「ちょうど日が沈むところでございます」
正確だ。
私の体内時計は、日没に合わせて動くようになっている。
夕焼けを見るには最高の時間。
(部屋に時計を付けさせないと……)
廊下にはあるけど、取りに行くのが面倒なのだ。
昔の私は時間なんて気にせず、体のリズムだけで生きていたのかもしれない。
でも私は違う。
正確な時間――それは全ての基礎だ。
「音が少々大きいのですが、よろしいでしょうか?」
その言葉で、部屋に時計がなかった理由が分かった。
この世界の時計は、かなりうるさいのだ。
現代の静かな時計とは違う。
「大丈夫」
エリンと私の生活リズムのズレを埋めるためにも、時間の把握は必要だった。
(真昼に外へ出るのは難しい。でも城内なら、子どもの時間に合わせられるよう努力しよう)
新しい目標がひとつ増えた。
「記憶が少し曖昧なんだけど、城に展望台ってあった?」
この城は、ドイツの古城みたいに円筒の塔がいくつも伸びている。
一番高い塔に登れば、景色が見渡せるはず。
(時間が経てば完全に暗くなる。夜景でもいいけど……)
どちらも悪くない。
「どちらの展望台でしょうか」
「城で一番高いところ。外が見える場所」
すると侍女が言った。
「そこは……魔王妃様が一番お好きだった場所でございますが」
昔の私が好きだった場所。
なら、思い出せるはずだ。
思い出せ、思い出せ……!
――ピン、と何かが繋がった。
薄いけど、塔の頂上の記憶。
『空の海』と呼ばれていた場所。
「空の海へ行く。先導しろ」
案内して、って言うつもりだったのに、言葉が勝手に変わった。
私たちは移動を開始する。
ガーディアン三人は三角陣形で私を守る。
(階段……めちゃくちゃ登るやつ?)
階段を見て、私は一瞬ひるんだ。
その時、侍女がちらちらとこちらを見る。
――あ。あの合図。
向こうに、見覚えのある不思議な扉があった。
まさか、これ?
私は右側のプレートに手を当てる。
ウィィン!
(……エレベーター!?)
広い。全員乗っても余裕がある。
他の場所には無かったのに、ここだけ。
中へ入った瞬間、思い出した。
(魔王の執務室が、この塔にあるんだ)
塔の三分の二あたりに、魔王の執務室。
寄って顔を見ようかと思ったが、すぐにやめた。
普段は優しいけど、
仕事中に邪魔すれば――会議の時みたいに、絶対に優しくない。
ちぇっ。ちょっと寂しい。
でも彼が働いてこそ城は回る。
ここは我慢だ。
ウィィン。カチッ。
「到着でございます」
ものすごく速い。
私はエリンを抱きしめたまま外へ出た。
一歩踏み出した瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
エリンも楽しいよね。
ずっと室内だったのに、初めての外だ。
(これだ……!)
古城の最上階。
空が見えて、周囲の景色が全部入る。
そして向こうには、パラソルとテーブルセット。
昔の私がいつも座っていた席。
その向きは――ヴァンパイアの故郷の方向。
(昔の私、そんなにホームシックだったの?)
「テーブルの向きを変えろ」
私は反対側へ向けさせた。
「よし」
魔王と目が合った、あの方向――城門側へ。
これから私が見るべき場所は、そこだ。
その時、エリンが喃語を漏らした。
生まれて初めて見る外の世界。
嬉しいのだろう。
向こうに大きな庭も見える。
あそこでピクニックもできそうだ。
私はパラソルの下、椅子に腰を下ろし、
沈んでいく太陽をエリンと一緒に眺めた。
美しい夕焼け。
久しぶりの光景だった。
――その時。
「ここにいたか。俺の妻よ」
その声と同時に、背後から温かい腕が私を包んだ。




