第10話 滅びの未来を私は認めない
「じゃあ、エリンに会いに行こう」
私は、元乳母だった三人の女性の手を取りながら言った。
「あなたたち、私が眠っている間、エリンに授乳してくれて本当にありがとう。
これからはガーディアンになってもらう。エリンの部屋を守ってほしい」
「わ、私たちが……そのような役目を……」
「あなたたちの戦闘力は強くなっている。
さっきの一撃を防ぐほどではないけれど、並の者なら十分止められるはずだ。
一度、自分の魔力を動かしてみるといい」
「えっ」
「そ、そんな……」
「私たちは戦闘魔族じゃないのに……?」
彼女たちに血の従属を施してから、しばらく時間が経っていた。
不思議なことに――
私は彼女たちの能力値や属性が見えるようになっていた。
そして実際に、彼女たちの戦闘力は大きく上昇していたのだ。
「ほう?」
執事が興味深そうにこちらを見る。
私は即座に言った。
「血の従属は、私でもむやみに使えるものではない。
妙なことを考えるな。これは本当に緊急の時にしか使うべきではない」
「承知いたしました」
彼は深く頭を下げた。
(……ん?)
その時、強い視線を感じた。
振り向くと――
赤い髪の美しい男。
私の夫。
魔王が立っていた。
「魔王様に拝謁いたします」
その場にいた全員が一斉に膝をつく。
私も同じだった。
魔王城の礼法が、自然と体を動かしていた。
その時――
魔王が近づき、手を差し出して私を立たせた。
「大丈夫か?
美しき我が妻よ」
耳元で囁かれる低い声。
(マハトラの変身のせいか)
彼はさっきの殺気を感じて、急いで来たのだろう。
私が何も言わないと、魔王はさらに尋ねた。
「マハトラが、そなたに無礼を働いたのか?」
その瞬間。
魔王の体から殺気が溢れ出した。
今ここで執事を殺してしまいそうなほどの勢いだった。
「違います。
少し話をしていただけです」
チラリ。
魔王がマハトラを見る。
その視線を受けて、マハトラが立ち上がる。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。
魔王妃様に忠誠を誓うことになり、少し気が高ぶってしまいました」
「忠誠を?」
魔王はわずかに驚いたようだった。
(なんで驚くの?)
その時、マハトラが私を見て言った。
「ライカンスロープ族の長老。
このマハトラ、エステル魔王妃様に忠誠を誓います」
深く頭を下げる。
私は思わず言った。
「……分かった。
その忠誠、受け取ろう」
魔王の前で忠誠を受けるのは少し気まずかった。
だがそうしなければ、魔王が誤解して彼を殺しかねない。
(……って、長老だったの?
それってかなり偉い立場じゃない?)
「せっかく来たんですし、みんなでエリンを見に行きましょう」
私は魔王の腕に腕を絡めた。
仕事を理由に逃げられないようにするためだ。
「……!」
魔王の目がわずかに動いた。
執事も少し驚いたようだった。
(あれ?
魔族って腕を組まないの?)
だが魔王は何も言わず、私に歩調を合わせて歩き出した。
「驚いたな」
「何がですか?」
「狂犬を飼い慣らした」
どうやら執事のことらしい。
「魔王である私ですら、まだ受けていない忠誠を、
魔王妃であるあなたが受けた」
「そうですか?
私が受けたなら、それは魔王が受けたのと同じでしょう」
「……なるほど。
確かにそうだ」
魔王の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
やがて、エリンの部屋の前に着いた。
「この人たち、エリンの乳母として本当に頑張ってくれたんです。
一緒に入って見てもいいですか?」
一応、魔王の許可を取る。
「それがそなたの望みなら」
魔王はあっさり許した。
私たちは中へ入った。
「エリン、まだ寝てる」
すやすや眠っていた。
ベッドは魔法結界で守られていて、
中のエリンは何の邪魔もなく眠れるようになっている。
私は魔王と腕を組んだまま、
眠るエリンを見つめた。
……可愛い。
その時。
エリンが目を開いた。
私と同じ黒い瞳。
「ほら見てください。
口が動いてる。何か言ってるみたい」
私は魔王の腕を引っ張った。
だが魔王は無表情のまま言った。
「驚いた。
これほど成長が早いとは」
そして――
「では、私はこれで」
「ちょっと!」
私は思わず叫んだ。
「今エリンが何か言おうとしてるんですよ!」
だが魔王は、するりと私の手を抜けた。
次の瞬間。
――消えた。
「……逃げた?」
あまりにも速かった。
完全に逃げたとしか思えない。
「ふふ」
執事が小さく笑った。
「赤子を見せるために魔王様を引き止めた方は、
歴代の魔王妃でもエステル様が初めてでしょう」
「そうなの?」
私は首をかしげた。
歴代の魔王の事情なんて知らない。
「魔王様は……
おそらく慣れていないのです」
「慣れていない?」
「ええ。
魔王様は、幼い頃そのような母親の反応を、
一度も経験していないでしょうから」
その言葉を聞いた瞬間。
私は理解した。
(……そうか)
魔王は――
エリンのようには育てられていない。
冷酷な魔族の世界。
優しい子ほど、
深く傷つく場所。
(……きっと辛かったんだ)
その時。
エリンがまた口を動かした。
(今度こそママって言う?)
私は耳を近づけた。
だが執事が言った。
「言葉を話せるのは、
離乳後の“ウムカウテ段階”からです」
「ウムカウテ?」
その言葉で、頭の中の知識が開いた。
ウムカウテ。
魔族の第一成長段階。
およそ五歳程度の姿になる時期。
魔族の成長は人間と似ているが、
完全に同じではない。
魔力で体は急速に成長するが、
精神や言語は同じ速度では発達しない。
それでも――
人間よりは圧倒的に早い。
(ちょっと残念)
エリンが話せるようになったら、
今度こそ魔王を捕まえて連れてこよう。
絶対に見せたい。
その時だった。
新しい乳母が到着したという報告が入った。
私はガーディアンたちに管理を任せた。
不適合が出たらすぐ報告するように、と。
執事によれば、不適合率は約三割。
予想より多かったため、新しい乳母を急いで呼んだらしい。
外で待っていた女性たちは、
前の乳母たちが生きているのを見て驚いていた。
不適合なら――
処分される。
それが普通だからだ。
(本当に恐ろしい)
だが。
私に従うなら。
私と、私の子供たちと、魔王に従うなら。
そんな世界は――終わらせる。
その時。
「ええええん!」
エリンが泣き始めた。
そろそろお腹が空いたらしい。
私は向こうの薬瓶を見た。
魔王の魔力が入った瓶。
慣れた手つきで飲む。
これが体内で精製されるのを待てばいい。
「一日に一本だけですよ」
外へ出ながら執事が言った。
「分かっている」
昨日は無理をして倒れた。
もう同じことはしない。
私はエリンを抱き、授乳した。
さらり。
私の体から魔力が流れていく。
精製された魔力を、エリンがゆっくり吸収していく。
私は流れる量を調整しながら、静かに授乳を続けた。
もう痛みはない。
慣れてきたのだろう。
「……不思議だな」
さっきまで泣いていたのに。
授乳の準備をすると、エリンはぴたりと泣き止んだ。
まるで分かっているみたいに。
(賢い子だ)
将来、どんな子になるのだろう。
魔王の長男。
いずれ――次の魔王になるのかもしれない。
けれど。
その前に。
生き延びなければならない。
エリンも。
そして、これから生まれてくる子供たちも。
勇者。
帝国軍。
破壊される魔王城。
そして――
アトランティス島の未来。
私は知っている。
この世界の結末を。
ゲームの中で、何度も見た未来。
魔王城は滅びる。
子供たちの未来も。
すべて――壊される。
私は無意識に拳を握っていた。
(そんな未来――)
認めるわけにはいかない。
この子たちを。
守りたい。
エリンの温もりを腕に感じながら、私は静かに決意した。
たとえ未来が破滅だとしても。
私は運命を変える。
魔王妃として。
そして――
母として。




