5話 鬼頭やさことの、近づく距離
事件が解決してから、LINEのやり取りが少しずつ増えた。
最初は俺からばかりだった。
『今日ジム行ってきたよ。まだパンチ弱いけど、続けてる』
→ やさこから返ってきたのは、ちいかわの「がんばれ」スタンプだけ。
次の日。
『トレーナーに褒められた! ジャブのフォーム良くなったって』
→ 「ふーん」と一言+ちいかわの「すごい」スタンプ。
三日目。
『プロテイン、どの味がおすすめ?』
→ 「チョコ。甘すぎるの嫌いならバニラ」
初めてまともなアドバイスが来た。しかも、ちゃんと文章。
そんな感じで、毎日ジムの報告を送るのが日課になった。
やさこは相変わらず短文だけど、返事が来ない日はなくなった。
たまに、ちいかわの可愛いスタンプが混じるのが妙に嬉しい。
(……あんな強そうなのに、ちいかわ好きってギャップやばいな)
一ヶ月くらい経った頃。
俺は少し強くなった実感があった。
サンドバッグの芯を打つと、空気を裂くような音が返ってくる。
以前より拳が重く、床に残る足音も迷いが減っていた。
館林トレーナーが無言でミットを差し出し、短く言う。
「いいぞ。試合の圧はここからだ」
そのまま、ジム主催のアマチュア大会にエントリーした。
デビュー戦。相手は俺より一つ上の経験者で、入場時点から明らかに落ち着きが違った。
鈴の音が鳴って最初のラウンドが始まると、間髪入れずに左ジャブを刻まれた。
初めてのリングだというのに、体が勝手に後退していた。
1R、右のフェイントで前に出た瞬間、相手のストレートが顎をかすめる。
視界が一瞬白くなったが、距離を取り直して左のジャブを返す。
「今は当たるより、立つんだ」と自分に言い聞かせた。
観客席の端で誰かのスマホが光っては消え、心拍だけが高鳴る。
2R、相手は腰を沈めてボディを狙ってくる。
腹に入るたびに呼吸を取り戻すのが遅れ、腕が重くなった。
俺は一度角を付け、右ストレート→左フックの流れで合わせる。
当たった。相手の肩が鳴り、瞬間的にリズムを崩した。
3Rは自分も怖かった。
相手のコンビネーションを避けるたび、リングロープに腰を擦る音。
終盤、ラスト5秒で飛んだ一発だけ、全身の力を溜めて放った左ストレートが、ガードの縁をこじ開けた。
試合は判定。
数字で言えば僅差。
だが、俺にとっては「初めて、勝った」。
観客席のざわめきが、遠くで小さく祝福みたいに聞こえた。
興奮して、すぐにやさこにLINEした。
『今日、試合出て勝った!! デビュー戦だよ!!』
写真も添付(リング上でガッツポーズしてる俺)。
少し待つと、返事が来た。
「へぇ」
+ちいかわの「やったー!!」スタンプ(両手挙げてるやつ)
+「まあ、弱い相手だったんだろ」
……短い一言だが、刺さるような無愛想さとわずかな気遣いが同居していて、気に入られているのが伝わる。
でも、スタンプがめっちゃ喜んでるやつで、絶対嬉しがってるよな。
俺はニヤニヤしながら返した。
『次はもっと強い相手倒すよ!』
→ 「バカじゃね。怪我すんなよ」
これ、彼女なりの心配だよな……?
胸が熱くなった。
その日から、やり取りがさらに増えた。
やさこから質問が来ることも。
『今日何した?』
『プロテイン飲み忘れんなよ』
『ジム行くのサボってない?』
短いけど、明らかに興味持ってる。
俺の日常を気にしてくれてる。
短いやり取りなのに、こっちの無事を確かめる間をちゃんと残してくれる。
こっちを完全に切り捨てない距離感が、少しずつ生まれていた。
ある日、ジム帰りに寄った定食屋で――
カウンターに、やさこがいた。
エプロン姿で、バイト中。
長身が余計に目立って、客がチラチラ見てる。
俺は驚いて固まった。
やさこは俺に気づいて、赤い瞳を細めた。
「……ウザい顔すんな。注文するなら早くしろ」
そう言うときも、目元だけは一瞬こちらを追っていた。
でも、会計をしながら小声で、
「試合の動画、見せろよ後で」
……やばい、可愛い。




