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青色の空  作者: syuhugenki
2/3

2 九浄小夜

/十二月十三日



寒空を見上げて、息を吐く。

吐き出した息は白く曇り、溶けるよう大気に掻き消えていく。


冬は嫌いじゃない。少なくとも、夏よりは好きだ。

寒さは世界と自身との境界を明確にしてくれるし、白い息はそれだけで、

確かに自分がここにいるという証明になる。


後には何も残らない、一時だけの微かな証だけれど。

縋れるものが何もないよりかは、ずっと安心できる。


「空が、青いなぁ…」


当たり前のことを、ぼんやりと呟く。

空が青いのは、確か光の波長だとか反射とかが関係してそう見えるらしいのだが、

そんなことを知らなくても、空はやはり青いままだ。

理由など必要ないのだ。全てのものは唯あるがままに、そうであるべくしてそこに存在している。

それを科学やら化学やらで解明し、分解しようとするからおかしなことになるのだ。


空は青い。その程度、幼子でも知っている。

理屈を捏ねたところで、見えるものに変化が起こるわけでもない。

一面の青空は綺麗だ。雲一つ無い晴天の日は、気分が良い。

それだけわかっていれば十分じゃないかと、そう思う。


「は、ぁ」


もう一度大きく息を吐いた。

寒い。冬が嫌いではないと言っても、寒さに慣れているわけではない。

十二月上旬。それにしても、今日は一段と冷え込んでいる。

面倒臭がらないで、せめてマフラーくらいは巻いてくればよかった。


この気温で手袋だけなのは少し心許ない。

そういえば、仕舞ってある冬用のコートを出しておくのも忘れていた。

家に帰ったら出しておかねばならない。

まぁ、放課後までそのことを覚えていれば、だけれど。


ゆるゆると歩道を歩く。

時刻は、もうじき八時半にさしかかる頃だろうか。

予鈴がなるのはちょうどその時間。今となっては、どんなに急いでも遅刻は免れまい。

それを承知で、いつもより二十分も遅く家を出たのだから、別段焦る事もないのだが。


「…何だか、なぁ」


妙に心がそわそわとしている。

きっと、学校に遅刻してはならないという、固定観念じみた何かが胸の内で蠢いているせいだろう。

こういう焦燥感は、何となく気が滅入る。


横断歩道を渡って、学校へと続く狭い小道に入った。

聞き慣れたチャイムの音が耳に届く。学校までは後歩いて数分の距離。

完全な遅刻である。しかし急ぐつもりもない。むしろ、予鈴に間に合ってしまったら目的が達成されないのだから、

急いではならないのだ。


学生らしからぬ行動であると思うし、その自覚もある。無遅刻無欠席の記録もこれでパーになった。

別に構いやしない。今通っているのも、せめて高校ぐらいは卒業しなければならないだろうという責任と、

受かってしまった惰性で続いているようなものだ。

明日退学になってしまっても、困りはしないだろうと思う。


路地から、少しばかり開けた場所に出る。

そこにあるのは、小さな公園。滑り台と、木製のベンチだけが置いてある、

子供の遊び場として考えても広くは無い空間。


本来は幼児向けに作られたであろうこの公園も、

外で遊ぶという習慣自体が希薄になっている現代においては、

高校生たちが集まってダベるだけの集会所になっている。

近くにコンビニエンスストアーがあるのも手伝っているのだろう。

放課後になってからここを通れば、時折笑いながら歓談をしている制服姿の生徒たちが見受けられる。


寂れた公園。この時間帯、ここを使う人間などまずいない。

ただでさえ冬場で身を切るような寒さなのだ。

好き好んで外に出る物好きも少ないだろうし、うちの生徒たちのほとんどは、予鈴までに登校する真面目君である。


―――だから。

この時間、ここにいるのは、いつも決まった一人だけ。


そこに彼女はいた。

ベンチの端に腰を落ち着け、傍目からでは呼吸をしているのか危ういと思える程身じろぎをせず、

ぼうとただ空を眺めている。


いや、彼女が本当に空を眺めているのかすら、俺は知らない。

もっと別の物を見ているのかもしれない。もしかすると、何も見ていないのかもしれない。

視線の先に空があったところで、意識していなければ見えていないのと同義だ。

見ているのに見えていない。聞いているのに聞こえていない。

それは矛盾しているようで、どこででも起こりうる、有り触れたこと。


―――九浄小夜。

それが彼女の名だ。肩に触れるくらいまで伸びた長い黒髪と、人形のように整った顔立ち。

着ているのは我が校の制服で、そこいらの高校とほとんど違いの無い簡素なブレザー服。

防寒着らしいものは身に着けていないのに、それでも尚全く寒がる気配が無いせいか、

まるで等身大のマネキンがそこにあるだけのような、彼女自身を含めて風景の一部であるような、存在の希薄さを感じさせる。


彼女の素性をある程度知っているのは、何も知り合いだからではない。

このくらいなら誰でも既知している。彼女は、我が校で一番の有名人だ。

恐らく在校生で九浄小夜の名を知らぬ者はいないだろう。

なんせ、人付き合いというものをほとんどせず、担任の名すらまともに覚えていない俺でさえ、

彼女の名前だけは知っているのだ。


深窓の令嬢。

誰もが憧れる程の容姿を持っているのに、恋仲どころか友人すら作らない。

誰とも言葉を交わさず、交流らしい交流もしない彼女の噂は、良くも悪くも校内に広く流布している。


そして―――。

今日も九浄小夜は天を仰いでいる。

何時からそうしているか。何時までそうしているのか。

登校途中、毎日のように見る彼女の姿はいつも同じで、何かしらの動作をとっている瞬間を一度も見た覚えが無い。


高校というものに入学して、早半年。

ぼんやりと過ごして来たこの時間は、長くも無いが短くもなかった。

高低差のない、退屈と常識に塗れた高校生活。

だからだろう。何気なく目にする彼女はすんなりと俺の日常に溶け込んで、疑問に思うこともなくなっていた。


「…この時間になっても、やっぱりいるんだな」


予鈴などとっくに鳴り終わった。

もうじき、それぞれのクラスで授業前のSHRが始まり、長く変化の無い一日が幕を開けるという時間。

それでもまだ彼女はここにいる。

じっと空を仰いだまま、ここにいる。


「…どうかしちまったのか、俺は」


どうでもいいことだ。彼女が何をしようと、何を見ていようと、自分には何の関わりも無い。

会話したことすらないのだ。毎日遠くから何となしに目にするだけで、全くの赤の他人である。

なのに、何故か今朝に限って妙な程気になってしまった。

結局彼女は何時頃になってから登校し、学校にいるその他大勢に混じっていくのかがひどく知りたくなった。


この感覚を俺は知らない。好意とか、好奇心とか、そういうものではないと思う。

強いて言えば義務感などに近い。そうしなければならないという、強迫観念じみた何かが、知らず頭の奥に巣食っていた。


―――もう、行かなければ。

まともに考えれば、こんなことわざわざ遅刻してまで知るべきことではない。

さっきまでの思考こそが異常だったのだ。既に遅刻はしてしまっているが、このまま呆けて公園の入り口に突っ立っているよりか、

せめて一時限目までに間に合うよう努力をした方がずっと建設的だろう。


踵を返してその場を去る。

関わりは持たない。だから、声をかけることもしない。

他人とは一定の距離を保たなければ、またいつ間違って触れてしまうか、わかったものではない。


じゃり、と靴底が砂を擦る音。

公園に背を向け、再び学校へと向けて一歩踏み出した時。


「――――――あ」


微かな声が背後から聞こえた。

―――無視すればよかった。聞こえなかったフリをして、立ち去ればよかった。

しかし俺は、条件反射でつい振り返り、声の主を直視してしまった。


「――――――」


視線が交差する。黒い瞳が、まっすぐに自分を射抜く。

九浄小夜。ベンチから立ち上がった彼女は、何か驚いた様子でじっとこちらを見たまま、固まっていた。

そこに、先程まで感じていた人形のような希薄さは無い。

その感情は正しく人間が持ち得るもので、だからだろう、人間味を宿した彼女は、今までに見てきたよりもずっと可憐だった。


息が止まる。言い様の無い感覚が、全身を支配する。

目が合った。それだけなのに、まるで全てを見透かされているような気分に陥る。

何を見ている。何を視ている。形のあるものか、それとも無形のものか。

あの瞳は、目には映らないものこそを視るのではないかと、そんなありもしない妄想を抱き―――。


「っ、」


視線を切り、立ち去る。

これ以上ここにいたら何かが崩れる。理由は無いが、そんな気がしたのだ。


公園から遠ざかり、視界から消えるまでずっと、彼女はこちらを見ていた。


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