揺れる空気と知られざる名前
仕事場へ向かう当日の朝。いつも通り自室で朝食をとっていると、静かにドアがノックされた。
そこにいたのは執事。少し身構える。「やっぱり中止…?」そんな不安が一瞬、胸をかすめる。
「雪様はすでにお気づきかと思いますが、旦那様は時に会話の流れが不自然になることがございます。」
突然の切り出しに耳が研ぎ澄まされた。
やっと話してくれる――いつもその瞬間にすっと彼は遠くへ行ってしまったのに。
「少々、心が弱っておられるだけです。どうか、これ以上傷つかないよう、会話を合わせてください。」
その言葉に、自分が責められているような錯覚すら覚えた。
そうか…彼もまた、心を痛めていたのだ。
傷ついた心は、人によって現れ方が違う。
私は静かにひとりで苦しむタイプ。彼は、時折空を見つめる――まるで、そこに出口を探しているように。
かまわない。違和感があっても、頻繁でなければ受け入れられる。
邪魔しないよう距離を保ち、それでも、そっと関わり続けよう。
△△△△△
彼の職業は薬の研究者。大きな研究施設が家のすぐそばにあった。
執事の運転で送られ、彼にもらったIDを首にかけて、エレベーターで6階へ。
扉が開くと、優しげな女性が「こちらです」と案内してくれた。
ガラス張りの廊下を歩く途中、ふと視界に入った。
彼――レオンは、顕微鏡をのぞき込み、誰よりも真剣な目をしていた。
その表情は、今まで見たことのないものだった。
他の研究者との会話も流れるよう。皆の中心にいるその姿は、まるで別人のよう。
戸惑いながらも、私は与えられた仕事に集中することにした。
与えられたのは、器具の準備や片付けといった裏方。
人付き合いが苦手な自分には、むしろ心地よい作業だった。
彼は終始、研究に没頭していた。
話しかけることも、こちらを気にする様子もなく――その方がありがたいと思えた。
だけど、ふと思う。
ここにいる人たちは、私たちの関係を知っているのだろうか。
「一緒に住んでいる」とだけ告げられただけで、関係性の輪郭は曖昧なまま。
△△△△△
仕事が終わり、荷物を取りに隣の部屋へ向かうと、背後から声が。
「初めまして。田村翔です。レオンとご一緒に住まわれているそうですね。」
その瞬間、私はようやく彼の名前を知った――レオン。
それなのに、私は彼のことをほとんど知らない。
干渉しなかったからだ。それが彼のためだと思っていた。
「今日は助かりました。明日もよろしくお願いします。」
そう言って彼は微笑む。だがその後、不意にこう続けた。
「苦しくなったら、いつでも相談に乗りますから。」
え…どうして、そんなことを…。
“愛されることで苦しくなることって、あるのだろうか。”
まだ食事を一緒にするだけの関係なのに――。
そして、その関係が大きく変化するのは、次の日のことだった。