囁きの静寂
「ダメだ、やめろ」
あいつが囁いた。焦り混じりの声が、耳の奥を震わせる。
面白い――“従う”ばかりじゃ、何も変わらない。そろそろ、思い通りにならないことを見せてやろう。
「分かりました。私、ここに残ります」
そう告げると、執事の表情がわずかに和らいだ。
「必要なものはすべて手配いたします。雪様のお部屋は廊下の突き当たり、右手の扉です。中のものはご自由に。食事は部屋へお運びいたします」
まるで当然のような用意――疑問を抱く間もなく、思わず口をついて出た。
「…食事は、一緒じゃないんですか?」
冷たい目のまま、執事は静かに答えた。
「愛されていればよいと申し上げました。旦那様が“愛したい”と思われる時に、愛されていればよいのです」
その言葉が、胸の奥でざらりと響いた。
それは“条件付き”の愛?それとも“演出”された優しさ?
けれど、執事はこれ以上の言葉を許さなかった。私はただ、黙って部屋に向かった。
△△△△△
扉を開けると、そこはまるで舞台のようだった。
西洋風の内装、大きなベッド、重厚なソファ、磨き抜かれた窓。
そこに閉じ込められるというより、物語の“始まり”に立たされているような感覚。
読書に没頭した。ときに大の字になってベッドに寝転び、誰にも干渉されずに過ぎる時間。
それはどこか懐かしい…けれど、妙に孤独だった。
△△△△△
やがて、扉の外からノックが響く。
現れたのは笑顔のメイド。彼女は執事とは違って、ひたすら温かい。
温かい料理、柔らかな声、礼を尽くして届けられるやさしさ。
人のぬくもりに、体も心もじんわりと解けていった。
△△△△△
そして三日目。
快適だったはずの読書三昧が、いつしか物足りなさに変わり始めていた。
あの人は――“愛してくれる”と言ったはずなのに、一度も会っていない。
居ても立ってもいられなくなり、私はそっと部屋を出た。
静かな廊下。光が落ち着いて反射する床。すべてが美しい。けれど、どこか不自然。
「何をしておられるのですか?」
振り返ると、やはり執事。冷ややかな瞳が、心を試すかのように向けられていた。
「…旦那様を探しているんです。助けていただいたお礼をまだ…」
一瞬、彼の瞳が揺れる。そして言葉が返ってきた。
「今日は、旦那様とご一緒に食事されるご予定です」
△△△△△
指定された部屋。
そこにはすでに用意された食事と、彼――レオンが待っていた。
穏やかな微笑。整いすぎていて夢のような顔立ち。
それなのに、なぜか“本物”に見える瞬間がある。
「…あにょ、この前は…ありがとうございました」
声が震える。噛んだ。最悪だと思ったのに、彼は楽しそうに笑ってくれた。
その瞳が、私を愛おしそうに見ている気がした――でも、それが“愛”なのかは分からない。
料理を口に運ぶ。温かくて、優しい味。
「いつも通り、美味しそうに食べるんだね」
彼は言った。私がメイドに毎回「美味しかった」と伝えていたことが、伝わっていたのだ。
「とても…愛がこもっているように感じます。温かいです」
また、微笑みが返ってきた。
言葉は少ない。でも沈黙が苦じゃない。むしろ心地よい。
この日をきっかけに、3日に一度、彼と食事をする習慣が始まった。
△△△△△
不思議なことがひとつ。
彼といる時、“あいつ”は囁かない。まるで、その存在が彼によって沈められているようだ。
ただ、会話の中にはいつも違和感があった。
何かが欠けている、あるいは、隠されている気がする。
△△△△△
感謝の気持ちを伝えたくても、私には何もない。
メイドに相談すると、彼女は笑顔で提案してくれた。
「それなら、旦那様のお仕事を手伝ってみては?」
その言葉はすぐに執事に伝えられ、なぜかすんなり許可された。
こうして、私の“感謝祭”は静かに幕を開けた。