「おまえを愛することはない」とか、わざわざ言う必要ありませんよ
王侯貴族の結婚とは、9割5分が政略である。100組中95件は偽装結婚なのだといっても過言とまではいかない。
好きでもない相手との結婚。妥協と諦めの境地。どこだってそんなものだ。
最近「おまえを愛することはない」だとか「きみと愛し合うことはない」などと、いわずもがなのことを口にする貴族男子が増えているらしい。
最大限好意的に捉えるとして、ウソをつくのが苦手な正直者なのだろうか。本音と建前の使い分けもできないようでは、いずれ貴族の世界から追い落とされると思うけれど。
かくいうわたくしも偽装結婚のクチだ。婚姻は社会的体面のための形式上のもので、夫婦関係はない。
「おまえを愛することはない」宣言をするほど、夫は無神経な人間ではなかった。もっとも、偽りにしても「愛している」とささやくほどの甲斐性もないが。
たまに顔を合わすと、
「マダムは今日もお美しい」
なんて、他人行儀なことをいう。仮にも自分の妻だというのに、わたくしのことを「マダム」と呼ぶのだ。
「マダムを愛する資質のない自分を、すこし恨めしく思うよ」
つづけて、大真面目な顔で、そんなことを。
そう、もうおわかりでしょうけれど、わたくしの夫君はよそに妾を囲ったりはしていない。真実の愛で結ばれている女性はいるものの、身分違いの相手だから、王侯貴族として社会的体面のために偽装結婚をした、というわけではなかった。
海を隔てた遠国からも模範として使節団が訪ねてくる、新興強国プロディキオンの王であり、国民からの支持は圧倒的で、哲人王とか、鉄人王とも呼ばれている、国王フリードリヒ3世が、わたくしの形の上での旦那さまだ。
山ばかりでロクな農産物も育たない貧しい国は、科学技術の発展によって変わった。
岩山の奥底に眠っていた膨大な鉄鉱石と石炭は、金銀に劣らぬ財貨へと化け、鉄路が国内を隅々まで結びつけた。鋼の工具が岩盤を切り通し、国土の一部でありながら中央と疎遠だった、港湾地帯とのあいだもわずか2時間で行き来できるようになった。
生命をほそぼそつなぐためだけに、山間の痩せ野で無理に農耕をする必要はなくなった。鋤は捨てて皆で工場で働き、鉄でできた機械を海外に売り、食料は買えばいい。
胃の腑の制限から解放された、頑固で、寡黙で、誠実な山の民は、たちまち数を殖やした。当然、資源や工場を目当てに、外国から多くの技術者や労働者、資本家も入ってきた。
産業は富をもたらしたけれど、奢侈に狎れて懶惰な気風が蔓延しないようにするすべを、プロディキオンの王族は心得ていた。
農作業に追われる必要のなくなった、頑固で寡黙で誠実な人民に適した仕事。それは職人であり、担保に妥協しないが低利の良心的金貸しであり、そして兵士であった。
古来よりプロディキオンの山岳兵は勇猛で知られていたものの、土地の貧しさもあり、有事以外に招集されることはなかった。
かつてのプロディキオン兵は、その訓練の不足を共同体の固い結束と個々の剛直な性状で補っていたが、生存のための野良働きから解放されたことによって、精強で厳格な常備軍を組織できるようになったのである。
一糸乱れぬ統制で複雑な新兵器を操り、決して略奪狼藉の挙に出ない鉄の規律のプロディキオン王国軍は、すぐに同盟国の称賛と羨望の的となり、敵国からは恐れられるようになった。
祖父が作り、父が育て、自らが完成させた王下の兵団を、夫はなによりも愛している。王子でありながら、兵舎で育ったとまでいわれる軍隊愛好家だ。
わたくしとの婚礼の儀のときですら、君主として礼装をしていたのは教会の中だけで、パレードのさいは元帥服で民衆の歓呼に敬礼を返していたほどである。
そんな王を国民たちも面白がって、沿道には軍人ではないのに軍服を着て、国旗と軍旗を振る老若男女が詰めかけていた。わたくしは、なんだかとんでもない国に嫁いできてしまったな、と思ったものだ。
……馴れてみれば、野蛮でも好戦的でもなく、どことなく垢抜けないけれど質実で虚飾のないプロディキオンの空気は、わたくしにとって存外居心地が悪くなかった。
わたくし自身、永く続いた王朝の姫として生まれておきながら、なににつけても決まりごとばかりの、儀典、前例、慣行主義の宮廷生活にはうんざりしていた。縁談を取り持った外交団は、なかなかどうして、わたくしの性分とプロディキオンのお国柄の食い合わせを考えてくれていたのだろう。
氷雪に鎖された長い冬のあいだ、寒さに耐えながら春を待ちつづけてきたプロディキオンの人々は、内省的で思索の深い、詩人であり哲学者でもあった。
産業の振興は学問の発展なくして実現できない。夫は軍の総司令であると同時に、王立大学の学長でもある。わが国からも、多くの学者が招聘され、母国以上の恵まれた待遇で研究に打ち込んでいる。
結婚以降、夫はわたくしに、時節ごとの儀式で王妃としての務めをこなしてくれれば、あとは自由にしてくれてけっこうといっている。夫としての義務を果たさない自分に代わる男性が必要なら、遠慮することはない、とも。
ただ、わたくしは独り寝がさほど苦痛だとは思わなかった。夫に対する気持ちは、たしかに男女の情念とはいえないのだけれど、嫌いではない。
いささか難儀な性癖を持ってしまった弟を見ているような気分だ。自分では問題解決の助けになれないながらも、彼なりのしあわせにはたどり着いてほしい、そう願う心持ち。
政略の観点からいえば、わが王朝の血をプロディキオン王統に混ぜることができないのは、次代へ持ち越される課題として残っている。
プロディキオンとの敵対を避けたいわが国として、今代での婚姻政策は規定のものであった。フリードリヒ3世が女性に愛欲を抱くことはないだろう、という事前開示は、折衝の席でプロディキオン側から伝えられていた。
わが国の外交団と宮廷は一縷の望みを託して縁談を進め、そしてわたくしは、ほかの候補がすでに庶子を複数もうけている艶福家ぞろいであったので、多情と無情を天秤にかけて、後者を選んだ。
建前上、まだ立太子とはされていないが、フリードリヒ3世の弟である、アルブレヒト大公の長男メルヒオールが、継嗣として内定している。わたくしから見ても、なかなか好ましい甥だ。そしてさいわいなことに異性愛者のようでもある。
わたくしの役目は、つぎのプロディキオン王となるメルヒオールと、わが国の王女を引き合わせることだ。とびきり気立てがよくて身体が丈夫で、浪費趣味はない娘を選んであげなければ。
もっとも、絶対額はともかく、国土の広さや国民のひとり頭の稼ぎ、なにより宮廷経費の多寡を考えると、もはやわが国よりプロディキオンのほうが富裕といえる。
のちの世の人々は、わたくしのことを「王朝間のしがらみのせいで愛を得られなかった哀れな女」と見なすのだろうか。
愛のないまま身体だけ重ねて不幸を再生産するよりは、交わることはないと承知の上で、敬意を持ってお互い距離を保つ関係でいるほうがいいと思うけれど。
都合のいい相手がたまたま見つかったわたくしは、運がいいだけのことなのかもしれない。
ただ……わたくしはいま、すくなくとも不幸ではない、と明記しておくことができる。
降誕歴1854年炎麦の月
プロディキオン王都ウルバン宮にて