急
荷物を背負ってホテルを出ると、強い風がビニール袋を吹き飛ばしていくところだった。ビニール袋は、アスファルトの路面の上でぐるぐると一回か二回渦を巻くと、そのままに、天高くどこかへと飛び去って行った。そのまま、袋の行方を見ていたかったが、土砂降りの雨に顔を叩きつけられて目で追う事は適わなかった。
ホテルを出るとき、フロントから「やめたほうがいい」と言われたが私は、その止める声を聴くことなく、ホテルを出た。
土砂降りの中、街で唯一のコンビニで買った雨合羽を羽織って、歩く。
雨は直接に靴に入ってくるが、気にすることはなく歩く。
ちらりと、海の方へと目線を移せば、夜の海であるというのに、ごうごうと打ち寄せる波が白く飛沫を上げているのが見えた。港に停泊している一つの船はその寄せてくる波によって揺れていて、転覆する間際とも見えた。まともな漁師はすでに船を陸に揚げているが、遅れたのだろう、もはや、どうのしようもない。
私はその船に背を向ける形で、歩き続けた。
足を止めたのは、ヤマモト・カズオの館の前だ。
監視カメラは相変わらず、館の前を睨みつけていて、それは私を睨んでいるようにも見えた。
「顔はばれてないように……」
それだけ祈るように呟きながら、私は少しだけ館から離れると、昼間に見つけた玄関からみて左手の路地へと向かう。そこには同じく監視カメラがあったが、私はそれを気にすることなく、鞄の中から折り畳んでいたビニール袋を取り出した。コンビニで雨合羽を買った時に、あわせて購入したものだ。
さらに、路地の奥にあるごみ箱を引きずってくると、それの上に登る。
ちょうど、監視カメラのレンズが手の届くあたりにある。
さっとビニール袋をカメラに被せると、吹き飛ばされないように下で軽く縛る。これで、ここから侵入したとは気づきにくいだろう。例え、このビニール袋に気付いたとしても、風で飛ばされてきたとでも感じてくれるかもしれない。勿論、所詮はそういう希望が大部分を占めているのではあるが。
ぐいっと塀の上へと手をかけて、よじ登り、跨ぐようにして屋敷の中へと入った。
茂みに落ちて音がするが、雨音と風の音ですべてはかき消される。
そのまま、人気を悟られぬように姿勢を低くして建物へと進む。気分は泥棒だ。いや、無許可で人様の家の敷地内に侵入している時点で、十分に、泥棒である。西洋風な建物を見て、ごくりと唾を飲み込む。
中には間違いなく、ヤマモト・カズオがいると思うと興奮が半分、そして、今、自らがしている悪行に対する罪悪感が半分占めていた。
建物へと近づくと、玄関扉を開ける。さすがに塀の中にあるために、建物の玄関扉は施錠されていなかった。
「お邪魔します」
素知らぬ風を装い、礼儀とばかりに小声で挨拶をしながら建物へと入り込む。
稲光に照らされる家の中は、暗いが、なんとか把握は出来そうだった。
かなり西洋風に、映画とかで出てくる西洋チックな様式の館と言える内装は、どこか不気味だ。雨音に混じって定期的なじーっというコイル鳴きのような音が聞こえる他は、シンと人気のなさが空気を通して伝わってくる。奇妙なものだ。おそらく、二人は最低でもいるであろうに、人気がない。
私は、慎重に忍び足で進むが、雨合羽から垂れる雨水は致し方ない。
階段を上り、二階の廊下を探す。
コリル鳴きのような音が大きくなっていくのに、連れて一つの部屋が近付いてくる。
気になる。
一体、この音の原因が何であるのか。
気になったのだ。
その部屋の前に停まり、ドアノブに手をかけて、扉を開ける。
中には一つのベッドがあった。
キングサイズの大きなベッドで、その上に一人の男が寝ている。
ヤマモト・カズオだ。
いや、そうだと思う。断言できない。
何故ならば、私の知っているヤマモト・カズオは、短く切り揃えた白髪の知的な男だ。それが、今、ベッドの上に横たわっているのは、枯れ枝のようにやせ細った今にも死にそうな男である。とても、同じ人物であるとは断言できないほどの変わりようであるし、かと言って、確かに顎や鼻は、私の知っている在りし日の彼そのものだった。
そして、あのコイル鳴きのようなあの音は、そのベッドの傍らにある機械から流れていた。
とてもではないが、私は機械には詳しくない。しかし、その機械から伸びている管が、ヤマモト・カズオにつながっているのを考慮すると、医療的なものであるのは想像できた。
「これは」
「ヤマモト・カズオ本人です」
声がして振り向くと、前に見たお手伝いさんかという女性がいた。手にはモップを持っている。
「濡れたままに歩かれると困るのですが」
「いや、それはそれとして、その、どういう」
「哀れなものでしょう」
女性は、モップで床の水滴を拭いながら近寄ってくる。
「この人は、電気を嫌い、この文化的に退化したこの国を嫌っていました。しかし、それでも老いと病からは逃れる事は出来ませんでした。そこで、すがったのは医療でした。電気がずっとなければ、生き延びれない。延命をずっと受け続ける身体」
「延命を選ぶのは別に」
「結局のところ、この人は、自分の主義や主張、思想よりも自分の命が大事だった、こんなになっても、こんな風に」
女はそう言うと、機械へと近寄る。
すっと、そして、伸びている管へと掴む。
引き抜くつもりだ。
とっさに、そう考えたが、それよりも早く動く影が、女の手を掴んだ。
「今も生に執着している」
ヤマモト・カズオの瞳が爛々と光っている。
それは、とても死を待つ老人のそれではなく、生にしがみ付こうとする動物のそれだ。
そして、そんなヤマモト・カズオの様子を見る女の目も、また、爛々と楽しそうに光っていた。
私は、気が付くと踵を返して逃げ出していた。
取材も何もできないと思ったし、もうこれ以上、あの部屋にいたくはなかった。
ただただ、不気味であった。
取材できなかったとして、報告すればいい。そう思い、土砂降りの雨の中、私は建物を飛び出し、正面玄関から逃げ出した。嵐はまだ強く、稲光も雨も風も何もかもが私をもみくちゃにする。一度も止まらずに、ホテルへとたどり着くと、雨合羽を脱ぎゴミ箱へと捨てる。
そのまま、ただ、朝が来るまで待った。
明日の朝の一番に帰ろう、とそう思いながら、いつしか眠っていたらしく、携帯電話のアラームで目が覚めた。
手早く帰り支度を始めて、朝食を前にホテルを飛び出す。
「昨日はすごい雨でしたね」
と、フロントが言ってくるが、とくに言葉を返す気にもならない。
はやく町から離れたかった。
ホテルを出ると、昨晩の嵐の影響か、風はまだ強く冷たかった。しかし、雨こそ降っておらずそこだけが救いであった。バス停へと向かう道すがら、救急車がサイレンを鳴り響かせながら通り過ぎていった。一体何事かと目線だけを向けると、ヤマモト・カズオの屋敷の前に停まった。
二階の窓を開けて何事かと様子を見る老婆の姿が見え、その老婆は道を行く一人の老人を呼び止めた。
「何があったのかぁ?」
「カズオさんとこが、亡くなったそうだぁ!」
老人の声を聴くと同時に、屋敷の中から救急隊員が担架をかついで出てくるのが見えた。
そこには一人分の膨らみがのっていた。
あの女性が何かしたのか。はたまた、ただの寿命であったのか。
私は確かめる術もなく、ただ、帰ることにした。