その㉘
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「ねえ、克己のお母さんって、どんな人だったの?」
天野さんと旅を始めて二十五年が経ったとき、彼女は不意にそんな質問をしてきた。
「知らねえよ」
オレは乱暴に返事した。
「とっくの昔に家を出ていきやがったんだ。もう覚えてねえよ」
「そうなの」
天野さんは少し残念そうな顔をした。
「せっかく産んでもらったのに、顔くらい覚えておきなさいよ」
「無理無理、親父の顔だって覚えてないんだぜ? 母親の顔なんて…」
そう言いかけたとき、オレはあることを思い出し、口を噤んだ。
少し考えてから言う。
「いや…、まあ、でも、コロッケかな?」
「ころっけ? なに?」
「いや、だから…、コロッケの味を覚えているっつーか…、昔、なんかのタイミングで、肉屋のコロッケを買ってもらってたんだよな。だけど、オレ餓鬼だし、胃袋小さいし、全部食べられないんだよ。だから、母さんと半分こして食べてたんだ」
「ほう…」
「あれが美味かったんだよ。肉汁がじゅわっとして、玉ねぎもいい感じに甘くて…。でもって…、母さんが笑ってて…、『そう? 美味しい?』って言って、オレの頭を撫でてくるんだ。顔は憶えていないのに…、その感触だけ覚えているっつーか…」
歩きながら、オレは秋空を仰いだ。
「もしかして…、オレの母さんって、良いやつなのか?」
「そりゃ知らんよ」
天野さんは大げさに肩を竦めた。
「まあでも、そういう思い出があるって良いよね。そういうことなんでしょうね」
そして彼女は、いたずらっぽく笑った。
「まあ! 私の方が母さんっぽいけど!」
「張り合うなよ。ってか、母さんじゃねえし」
「ちょっと! なにその言い方! 私みたいな母さん、嫌い?」
「嫌いじゃないけどさ!」
「好きなんだ」
「好きじゃねえよ!」
本気で言っているわけではなかった。彼女はからかうつもりで言ったのだ。
オレが顔を真っ赤にして叫んでいるのを見て、天野さんはくすっと笑った。そして、頭をくしゃくしゃっと撫でる。
「やめろよ。あやされているみたいで恥ずかしいんだよ」
「ま、あんたもいつかわかるよ」
「何がだよ」
「だから、人を護りたいって思う気持ち」
「ああん?」
「つまり、『母さんの気持ち』ね」
「急にどうした?」
その日、天野さんは妙に上機嫌で、オレの頭を撫で続けた。美味しいものをごちそうしてくれた。眠るときは、ずっと抱きしめてくれた。
誰かを護ること。
命を張ること。
その時はわからなかった。
いま、わかった。
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