その⑪
「…うん?」
気が付くと、オレはマサムネの腹を枕にして横になっていた。
まだ夜は明けておらず、隣の黒々とした山が、今にオレを飲み込もうとそびえている。空も、今日は曇っていて、墨汁をぶちまけたみたいに黒かった。町の明かりも、ゴマ粒をまぶしたみたいに少ない。
「さむ…」
春とは言え、夜中は冷える。
オレは反射的に、胸のあたりにかかっていた布を抱き寄せた。
「うん?」
嗅ぎ覚えのある、匂い。
オレが抱き寄せたのは、天野さんが時々着物の上に着ている羽織だった。
「天野さんの…、羽織…?」
なにか違和感を覚え、身体を起こす。
マサムネも目を覚ましたようで、「くうん…」と寝ぼけた声を上げた。
「おい、マサムネ、天野さんは?」
「くうん?」
マサムネの黒い影が首を傾げた。
「おい、天野さん? おい、どこだよ?」
辺りの暗闇に呼びかけたが、天野さんの姿が見当たらなかった。
「どこかに…、行ったのか?」
とりあえず、オレは学ランの上から天野さんの羽織を着ると、寝ぼけ眼をこすりながら立ち上がった。それから、まだ眠たげにしているマサムネの頭をぽんぽんと叩く。
「おいマサムネ。お前、天野さんがどこに行ったか分かるだろ?」
「くうん? ワンッ!」
「なるほど…、わからん」
すると、マサムネは湿った鼻を地面にこすりつけるようにして、すんすんと鳴らし始めた。
そして、そこに残る「匂い」ってやつを頼りに、あぜ道を進んでいく。
「よし! さすがマサムネ! そのまま天野さんのところに案内しやがれ!」
「ワンッ!」
マサムネの嗅覚を頼りに、オレはどこかに行ってしまった天野さんを探しに向かった。
一キロほど歩いた時だろうか?
東の空が薄紫に変わり始めた頃、順調に進んでいたオレとマサムネを驚愕させる事態が起こる。
ドンッ!
一見、というか一聴、運動会のスタートの合図のような、でも、重々しく、腹の底に響きような音が、朝の大気を揺らした。その音を聴いた瞬間、オレの中の人間の本能ってやつが、肌を粟立たせる。
遅れて「え…?」という声が洩れた。
マサムネも驚いたようで、地面を嗅ぐのを辞め、オレの方を心配そうな目で見てきた。
「おい、構わず続けろ」
「…ワンッ!」
マサムネは妙に鈍い反応を見せると、また、地面を嗅ぎながら進み始めた。
オレは舌先が乾くのを感じながらマサムネの尻を追う。
「……」
なんだ?
なんだ? 今の音。
ドンッ! って…、なんだ? あの音…。
言葉には出さない。決して思わない。
だけど、答えが出ていた。
突如、マサムネが激しく吠えた。
「ワン! ワンッ! ワンワンッ!」
「どうした?」
「ワンワンッ! ワン!」
「なるほど! わからん!」
マサムネが何かを訴えているのはわかる。だが、何を訴えているのかわからなかった。
オレがただただ困惑していると、マサムネはじれったくなったのか、顎で道の先を指し、そして、土を巻き上げながら走り出した。
「マサムネ!」
オレも、少し火照った脚を動かし、マサムネの後を追った。
あぜ道を抜け、砂利だらけのアスファルトの道に出て、湿気た空気を漂わせる田畑の間を抜け、民家を通り過ぎ、そして、ある場所にたどり着いた。
そこは、平屋の大きな一軒家だった。
周りを木組みの柵で囲まれ、屋根は重厚な屋根瓦で覆われている。庭には美しく湾曲した松の木が生え、柵の外からでも、荘厳な様子が見て取れる。
周りを田畑に囲まれた、孤立した豪邸。
その門の前で、マサムネが必死に吠えていた。
「ワンワンッ! ワンッ! ワンワンッ!」
「マサムネ!」
オレはマサムネに駆け寄り、吠えるのをやめさせようとした。
「おい、近所迷惑だろうが…、やめ…」
ふと、前を見た瞬間、身体の中の血が凍り付いた。
門をくぐり、十メートルほど行った先にあるガラス戸の前。そこに、誰かが倒れている。凝視しなくても、その白い着物と、流麗な茶髪、華奢な身体の持ち主が誰なのか分かった。
「な…」
身体が震える。
天野さんが、頭から血を流して死んでいた。
「天野さん!」
オレは住居不法侵入を顧みず、倒れている天野さんに駆け寄った。噎せ返るような血の匂い。マサムネはこれに気づいたんだ。
「天野さん! 天野さん!」
彼女の肩を掴んで揺さぶる。
天野さんは目をかっと見開き、口を半開きにしたまま微動だにしなかった。額が割れて、そこから黒い血が流れ出ている。この傷跡は…。
「撲殺か…?」
天野さんを抱えたまま呆然としていると、マサムネの吠える声が聞こえた。
はっとして顔を上げると、ガラス扉の前に立ったマサムネが、庭の方を向き、毛を逆立てながらひたすらに吠えている。次の瞬間には、駆け出した。
「おい! マサムネ!」
オレは天野さんの死体をその場に横たえると、庭に入っていったマサムネを追った。
庭には、天野さんを殺った犯人が…、いるわけではない。朝方の藍色の大気にさらされた、松の木や白い岩、鹿威しがあるだけだった。
縁の雨戸が開け放たれ、そこの締まり切ったガラス扉から白い光が洩れている。廊下越しにある障子の部屋からだと気づくのに時間はかからなかった。
日が昇る前の時間帯。
そんな頃に、部屋に明かりが点いている?
「……なんだ?」
「ワンワンッ! ワンッ! ワンワンッ!」
マサムネは微弱な白い光に向かって吠える。まるで、「この中に何かがいる」とオレに伝えているようだった。
「……くそ、どうなっても知らねえぞ」
オレは一度天野さんのもとに戻ると、彼女が握っていた錫杖を拝借して庭に戻った。
その錫杖を窓に振り下ろす。
ガシャンッ! とガラスが粉々に砕けた。
オレは窓に空いた穴から手を入れ、クレセント錠を下に押し込んだ。
そっと扉を開け、縁の廊下に靴で踏み入る。
「…………」
オレの横をマサムネが通り過ぎ、目の前の障子に向かって、やや控えめの声をあげた。
オレは「わかった」と頷き、障子に手をかける。
そして、勢いよく開け放った。
部屋の蛍光灯の光が、暗闇に慣れたオレの目に飛び込んでくる。思わず目を背け、学ランの袖でにじみ出た涙を擦った。
再び顔を上げる。
「え……」
そこに広がっていた光景を見たとき、オレの身体の血が凍り付いた。
一言で表現するならば、「地獄絵図」。
六畳ほどの和室。右の壁にはタンス。左の壁には押し入れ。奥の壁には別の部屋に続いているであろう襖。中央に、木目の美しいテーブルが置かれ、酒や、さきイカやカルパスなどのおつまみの類。だからと言って、香ばしい匂いだとか、アルコールの匂いが漂っているわけではない。噎せ返るような、生暖かい臭気。
青々しい畳や、鷹の絵が描かれた襖には、地獄の底から引き上げたかのような赤黒い液体が飛び散っていた。臭気の正体だと気づくのに時間はかからなかった。
壁際に、男が倒れていた。
昨日、オレや天野さんをしたたかに殴りつけた、茜の父親だった。
引き締まった胸筋の上に着たTシャツは真っ赤に染まり、獣のような瞳は黒く濁っている。オレを殴った時の剛腕はだらんと畳の上に垂れ、血に触れたのか掌が真っ赤に染まっていた。
飛び散った血液はこの男のもの。その証拠に、男の首がぱっくりと裂け、そこから赤い肉が覗いていた。
「っ!」
オレは思わず後ずさる。
倒れている男の前に、誰かが立っていた。
「なんで…」
オレは泣きそうな声で言った。
「茜…」
茜が立っていた。
父親の首から噴出した返り血を頭から被り、全身真っ赤にそまった茜がそこに虚ろな表情で立っていた。手には、ナイフが握られている。首をゆっくりと動かしてオレの方を振り返ると、力ない声で言った。
「ああ…、カツ兄…」
「茜…、なんで…」
「ごめんねえ…」
茜は、ははっと笑うと、握っていたナイフを畳の上に落とした。
「私が…、殺したんだあ…」