その⑩
どのくらい眠っただろうか?
目を開けると、天野さんの膝枕の上だった。
土の匂い、青草の匂い。どこからか川のせせらぎが聞こえる。どうやら、あの商店街から、マサムネがいた山の近くまで運ばれてきたらしい。
「あ、天野さん…」
「ごめん、克己…」
オレと目が合うや否や、彼女は頭を下げた。
「あんたと、茜ちゃんを守れなかった…」
「オレのことはどうでもいいんだよ」
オレはゆっくりと上体を起こし、起き抜けに首の骨を鳴らした。それから、喉の奥にたまった血の塊を傍の草むらに吐き出す。
「茜はどうなった?」
「あの男に連れ去られた」
「連れ去られたっていうか…、『連れ戻された』だろうな」
背伸びをする。背伸びがボキボキと鳴った。
「あの男は、自分のことを茜の父親だって言っていた。茜も、あの男のことを、『お父さん』って言っていたから間違いない」
まだ瞼の裏にこびりついてやがる。あの屑親父が茜の小さな身体を殴る様が。
痛いよ。あれは痛い。そうに決まっている。オレがそうだったから。
「………」
オレはマサムネに食われて指が欠けた手で、学ランの袖をまくった。そこには、三十年前、オレの親父によって付けられた、「根性焼き」の痕が残っていた。
茜も…、オレと同じか…。いや、それ以上か?
考えていると、寒いわけでもないのに、腹の底から震えが込み上げてきた。歯が、カチカチと鳴る。わが身を抱いて、蹲った。
オレが殴られたわけでもないのに、頬が痛い。
天野さんが「大丈夫?」と、オレの頭を撫でる。
オレは顔を上げた。
天野さんが、息を呑む。
「あんた…」
「あ、天野さん…」
オレは大粒の涙を流しながら、天野さんに抱き着いていた。彼女の薄い胸に顔を押し付け、ひきつけを起こしたように泣いた。四十四歳の男が情けない。ガキみたいに、泣いた。
天野さんは何も言わずオレを抱きしめ、そして、頭を撫でた。
「よしよし…、昔のこと、思い出しちゃったか…。私があんたを拾った頃のことを…」
「うう…、天野さん…」
オレは彼女にしがみつき、そして、懇願した。
「なあ、天野さん、茜のこと…、どうにかならないのかよ…」
「……」
天野さんは困ったように笑った。
「そうね…」
「あのままじゃ…、あいつ、親父に殺されちゃうよ…」
「うん、そうだね…」
天野さんがオレの頭を撫でる。そして、笑った。
「とにかく、今日は休もう…、もう暗いから」
「……うん」
オレを抱きしめながら、天野さんは、オレが気を失った後のことを説明してくれた。
「ちょっと…、まずいね。克己が倒れた後、何人もあの場所を通り過ぎたんだ。だけど、ほとんどの人間が、めんどくさそうな顔をして通り過ぎて行ったわ。誰も救急車とか、警察を呼ぶ人間がいなかったの。小さな女の子が、大の大人に殴られているのによ? しかも、ある人は私にこう言ったの、『あの親子に関わるからそうなるんだ。自業自得だ』ってね」
歯を食いしばる天野さん。
「ここまで冷たい人間を見るのは、百年ぶりね」
苛立ちを隠せず、オレを抱きしめる力が強くなる。
「茜ちゃんのことは第一優先として…、あのクソガキに、一発お見舞いしてやらないとね」
「うん…、そうしよう」
オレは窒息しそうになりながら頷いた。
マサムネが心配そうにオレのもとに寄ってきて、ふさふさの頭をこすりつける。
彼女の体温と、マサムネの柔らかさを感じながら、オレは気を失うように眠りについた。