その⑦
「ねえ、茜ちゃん」
「なあに?」
振り返った茜の顔は、マサムネの唾液でべたべただった。
「この近くに、温泉とかないかな? 銭湯でもいいんだけど」
「ああ、あるよ」
茜はこくりと頷いた。
マサムネの飼い主。ということもあり、茜の目から警戒心はすっかり消え失せていた。嬉々とした表情で、天野さんに説明する。
「少し行った先に、『青紗湯』ってのがあるんだ。昔、お母さんと行ったことがあるんだけど、すごく気持ちがいい温泉だよ」
「よし、じゃあ、今からそこに行かない?」
「え、なんで?」
「ほら、茜ちゃん、体、すっごく汚れてるよ? マサムネの唾液に、土に…、葉っぱとかいっぱいついてる。この一年間、マサムネの世話をしてくれたお礼がしたいんだけど…、いいかな?」
「おいこら」
オレは天野さんの頭を小突いていた。
彼女をオレの方を振り向かせ、着物の胸ぐらを掴む。
「てめえ、そんな回りくどいことしなくていいだろうが。今日会ったばかりのガキに、温泉代を払うのかよ。事情話して、さっさと出ようぜ」
天野さんは「えっち」と言って、オレの腕を払った。
「そういう、道理に欠けたことはしたくないの。マサムネは死なないけど、私がいなくて寂しい思いしたんだから、それを埋めてくれたことのお礼くらいはしたいでしょ」
「そんなもんか?」
オレの言葉を無視して、天野さんは茜の方を振り返った。
「ねえ、どうする?」
天野さん、今どきの小学生が、今日会ったばかりの女にほいほいついていくわけないだろ? ちゃんと、学校で不審者対策を…。
「うん! 行きたい! 温泉でしょ? やった! 久しぶりだなあ!」
って、行くんかい!
オレは一人でずっこけた。
「決まりね」
天野さんは女神のような微笑みを浮かべると、茜の小さな頭を撫でた。
まあ、天野さんが言うことだし…、仕方ないか。
オレは起き上がると、学ランの裾に付いた埃を払った。
無駄金を使うのは嫌だけど、背に腹は代えられない。この際だ。温泉とやらに入って日々の疲れを癒してやろう。
「あ、克己はここね!」
天野さんはそう言って、オレにがま口財布を投げてきた。
受け取って、中を確認すると、五千円が入っていた。
「これがどうした? くれるの? お小遣い?」
「なにバカなこと言ってんの? 克己はマサムネの世話ってことよ」
「あ?」
マサムネが「くううん」と甘え声をあげながら、すり寄ってきた。
「私と茜ちゃんは、温泉でさっぱりしてくるから。克己は、マサムネ連れてペットショップにいってきなさい」
「ああ、売るのか。旅の資金にするのか」
「バカじゃない? そのぼろぼろになったマサムネをトリミングして来いって言ってんの!」
「なっとくいかねえええええええ!」
※
三時間後。
「ったく、おっせえな」
オレは、「温泉 青紗湯」の前で、天野さんと茜が出てくるのを待っていた。
隣には、この町唯一のペットショップ「ドリームペット」で、トリミングしてもらったマサムネが座っていて、舌を出してしきりに「はっはっは…」と言っていた。
「うむ…」
オレはマサムネの頭に顔をうずめ、匂いを嗅ぐ。
血肉と土で、鼻がひん曲がりそうだったマサムネの体臭。それが、なんということでしょう。ペットショップ「ドリームペット」のトリミング担当のおばちゃんの手にかかれば、さわやかな、シャンプーの香りがするじゃありませんか。
「うむ…」
オレは、マサムネの頭を撫でる。
毛が伸び切り、たわしのようにごわごわだったマサムネの毛。それが、なんということでしょう。シャンプーの効果でさらさらになり、そして、きれいに整えられ、その雄々しきすがたはまるで、独眼竜政宗。まあ、マサムネは単眼じゃないんだけど。
「…むふふ」
五千円出してトリミングしただけある。なんか、こう…、柔らかい。いい匂い。なんか、癒される…。
「何やってんの?」
振り返ると、温泉に長く浸かって頬を紅潮させた天野さんが立っていた。その横には、これまた、頬を赤くした茜。しっとりと濡れた頭から湯気が上がっている。
「あ、おせえよ! 待ちくたびれたわ!」
「女の風呂は長いの」
天野さんは冗談っぽく言って、オレの頭を撫でた。
「言ったとおり、マサムネのトリミングは終わったみたいね。偉いよ」
「うるせえ」
オレは天野さんの手を払いのけた。
茜が、トリミングで小ぎれいになったマサムネに抱きつく。
「クロちゃん…、じゃなくてマサムネ、きれいになったねえ。すっごくふわふわだよ」
「ワンッ!」
マサムネと戯れる茜を見ていると、ふと、あることに気づいた。
「あれ? 茜、てめえ、そんな服着てたか?」
「うん? ああ、アマ姐に買ってもらったんだ」
ボロボロのポロシャツと、スカートを着ていたはずの茜は、今は、女児が好みそうな、白いブラウスと、フリルスカートを身にまとっていた。
天野さんが言う。
「ああ、せっかく温泉に入るんだから、服装もさっぱりしないとね」
「そこまでする必要あるか?」
「大した値段じゃなかったよ。こういう田舎はね、探せば安い店はいくらでもあるの」
「バカ犬のトリミングごときで五千円だったが?」
「相場だから」
相場なのか? 犬って金がかかるんだな。
オレと合流した天野さんは、ある提案をした。
「どうする? 克己。あんたも温泉入っていく? お金ならあげるけど」
「天野さんは?」
「もう暗いし、茜ちゃんと晩御飯でも食べようかなって」
「おいおい、またこのガキに時間食う気かよ」
オレは、温泉の看板の下に設置された電光掲示板が示す時間を見た。もう七時を回っている。小学生なら、とっくに家に帰って、ママの料理を食べている時間だった。
「あまり連れまわすんじゃねえよ。親御さんに捕まったらどうすんだ?」
すると、マサムネとじゃれていた茜が言った。
「大丈夫だよ。お母さん居ないし。お父さんは、女の人のところに行ってるから、今日は帰らないと思う」
「え…」
小学生のガキの口から放たれる、意味深な発言に、オレは凍り付いた。
天野さんの方を見る。
天野さんは「そういうこと」と言いたげに肩を竦めた。
ああ、そういうことか。
大した言葉を交わさずとも、茜のお家の事情を察したオレは、静かに頷いた。
「オレは温泉に入るわ。天野さんは、そのガキ連れて、適当に時間でもつぶしてなよ」
「うん、そうするね」
天野さんは頷くと、オレに温泉分の料金を渡した。
「私たちは、この通りをまっすぐ行ったところにある、『青紗商店街』でご飯食べてくるから…、そうだな…、二時間後に合流ってことでいい?」
「おう」
オレは天野さんに手を振ると、温泉の暖簾をくぐった。
「あ! 克己!」
「なんだよ? まだなんかあるのかよ?」
「いや、そっちは女湯なんだけど」
「………」
軒先にリードで繋がれたマサムネが、「ワンッ!」と吠えた。
※
田舎の温泉の割には、いい湯だった。
脱衣所で服を脱いで入ると、広々とした大浴場があり、決してきつくない硫黄っぽい匂いが鼻を掠めた。いつもは高級品であるシャンプーやボディソープを大量に使って体を洗いあげると、熱々の湯にどぶらんと浸かった。夜だというのに、人が少ない。浸かっているのは、オレと、しわくちゃの爺さん。あと、体格のいい男が二人だった。
湯に肩まで浸かり、壁の富士山の絵をぼーっと眺めていると、耳に中年の男の会話が聞こえた。
「おい、最近どうよ?」
「全然。商売あがったりだよ」
「ああ、そう。金の件はどうなったの?」
「まあ、多分上手くいくと思うんだが、少し、先方に勘づかれそうになっててなあ」
「新崎のくせして、そりゃ珍しいな」
「ガキのせいだよ」
「ああ、お前の娘さんか」
「あいつ、オレが家を空けてることをいいことに、結構自由にやっているらしくてな。この田舎だ。あいつがオレの娘って、すぐに広まっちまったんだよ」
「まあ、商売柄、てめえに娘は邪魔者か」
「そうだなあ。すぐにでも殺してやりてえところだが…。後々めんどくさいしなあ…」
なんか…、物騒な会話してる?
反社会的勢力の類だといけないので、その二人の顔を見ることはできなかった。
オレが肩を震わせながら湯につかっていると、ざぶん…と水面が揺れた。そして、湯から二人が出ていく。途端に顔を上げたが、二人のたるんだ背中が湯気でくぐもって見えるだけだった。
「………」
なんだったんだ?
まあ、いいか…。
オレはまた、体の力を抜いて湯に浸かった。