その④
山が近づくと、天野さんは唐突に、指を唇に当てて息を吹いた。
ピイッー! と甲高い音が山にこだまし、反響する。
「何やってんだ?」
オレの言葉を無視して、天野さんは指笛を吹き続けた。
すると、天野さんの発する音に呼応するように、山の奥から「わおーん!」と、狼の遠吠えのような声が聞こえた。
オレは身を硬くした。
「おい! 天野さん、なんか返ってきたぞ」
「ああー、やっぱりかあ…」
天野さんは気まずそうな顔をして頷いた。錫杖をシャラン…と鳴らし、足袋を履いた足を山に向かって踏み出す。
「迎えに行くよ?」
「むかえ?」
そうして、山の中に立ち入る…、前に、山に生い茂った木々を掻い潜り、一つの大きな影がこちらに近づいてくるのがわかった。
「え…」
オレは半歩踏み出したまま硬直した。
ガサガサ…と茂みをつき切り、オレたちの目の前に飛び出してきたもの…、それは、一匹の狼だった。
黒い体毛はぼさぼさで、泥棒草があちこちに付着している。金色の瞳がオレたちを見据えた瞬間、そいつはふわっとした尻尾を振りながら、走る勢いを強めた。
天野さんが、赤ちゃんを相手にするような声をあげた。
「マサムネ! 久しぶり!」
両手を広げる。
オオカミは「あおーん!」と甘えた声をあげると、彼女の控えめな胸に頭突きするみたいにして飛び込んだ。
勢い余り、天野さんとオオカミは畦道に転げ込んだ。
「あははは! マサムネ! 百年ぶりねえ! 元気にしてた? あははは! ちょっと、くすぐったい! あは! ごめんねえ、ずっとほったらかしにしてて!」
天野さんに飛びついたオオカミは、「くうーん」と鳴き、尻尾を振りながら彼女の顔やら胸やらをべろべろに舐めていた。天野さんはまんざらでもない感じで、オオカミを抱きしめている。
マサムネ? 百年ぶり?
「お、おい…、天野さん、そいつ…、まさか…」
オレが恐る恐る聞いた時だった。
笑ってオオカミを抱きしめていた天野さんが突然、「ふぐっ!」と呻いた。
それと同時に、ブチャッ! って、トマトが弾けるみたいに、赤い液体が曇り空に向かって拭き上がる。生温かいそれは、雨のようになってオレの頭に降り注いだ。
天野さんがことりと動かなくなる。
「………」
オオカミが血まみれの顔でオレの方を振り返った。
見れば、天野さんは喉を噛み砕かれて死んでいた。
「へ?」
オレが間抜けな声をあげた瞬間、オオカミは尻尾を振りながらオレの方に飛びついてきた。
「え? あ? ちょっと! おい! なんだよ! え? 何やってんだよ!」
オレは慌てて走り出す。
だが、人間の脚力がオオカミの脚力に勝てるはずもなく、背後から跳び蹴りを喰らったオレは地面に顔面から倒れこんだ。
オオカミが甘え声をあげながらオレの上に乗る。
「え! おい! てめえ! 何やってんだ! あ! やめて! あ!」
そして、オレの喉に咬みついた。
「ああああああああああああああああああっ!」
オレは喉を噛み砕かれて絶命した。




