その③
神月村。
あえてその村の詳細な地図を挙げるのは辞めておく。
強いて言うのなら、福岡よりも東南にあり、大分よりも西南にあり、そして、佐賀県よりも北東に位置する。田舎でも無く、都会でもなく、春は暖かく、夏は暑く、冬は寒い。降水量も安定していて、災害の類は飢饉を除いて一度もない。終の棲家にするなら、五本指…、とはいかないが、両手足合わせてニ十本指くらいには入る村だった。
「着いた!」
電車を降りた天野さんは、ぐぐっと背伸びをした。
「百年ぶりの神月村!」
「百年ぶり?」
オレは駅前の自動販売機でコーラを買いながら、天野さんに聞いた。
「前にも来た事があるのか?」
「来たっていうか…、四十年くらい住んでたね」
天野さんは苦笑を浮かべながらそう言った。
「世は大正。色々日本が揺れ動いた時代よね。小作争議だの労働運動だの、何処行っても問題ばっかだったし、納まるまでここらで暮らしてたの」
「へえ…」
オレは自販機で買ったコーラを飲みながら相槌を打った。
「それで? この村に何の用があるんだよ」
「ま、まあ、うん、いろいろあるわけよ」
「急にどした?」
歯切れが悪くなる天野さんに、思わずコーラを吹き出しそうになる。
「とにかく、勘違いだったときのために、今は言えないから…。うん、とりあえず、あそこを目指そう」
天野さんはそう言って、西の方を指した。
低い民家や、土臭い田畑を越えたその先に、小高い山があるのがわかった。昨日の大雨のおかげか、心なしか青々としている。目測だが、五キロくらいだろうか?
「山?」
「うん。山」
「なんて山?」
「ええとね」
天野さんがそう答えようとした時だった。
「アンタ、黒狼山に行くのかい?」
背後からおばさんの声がした。
振り返ると、案の定、スーパー帰りのおばさんが立っていて、着物の天野さんと、学ランのオレを訝し気に見ていた。
オレは首を傾げながら聞き返した。
「こくろうやま?」
「あの山のことだよ」
おばさんは、天野さんが指し示した山の方を、手入れの行き届いていない爪で指した。
「あの山はね、『黒狼山』ってんだよ。昔から、夕暮れ時に入ったもんが行方不明に遭ったり、頬を裂かれたりしてね…。噂じゃ化物が出るって話さ。あんたら、旅人だろ? 興味本位でああいうところに近づいちゃいかんよ」
「違いますね」
天野さんが遮るようにして、おばさんの話を否定した。
「あの山は、『のっぽ山』です」
「のっぽやま?」
今度はおばさんが首を傾げる番だった。
「なんだいその名前は?」
「少なくとも、百年前はそう呼ばれていました」
「うん? 百年前?」
おばさんがさらに首を傾げる。フクロウみたいだった。
オレは「おい」と天野さんに囁くと、彼女の着物の袖を引いた。
「変な誤解与えんなよ。収集がつかなくなるだろうが」
「ええ、わかってますよーだ」
天野さんは舌をべえって出すと、逆にオレの腕を引いた。
おばさんを置いてけぼりにして歩き始める。
「とにかく…、『あいつ』のせいで、山の名前が変わっちゃったことはわかったわ。早急にあの山に行くよ」
「お、おう…」
何もわからないまま、オレは頷くしかなかった。
※
一時間ほど歩いて、山に近づいた頃だった。
周りは、田んぼや屋根瓦の民家だけとなり、スーパーやコンビニの気配は完全に消え失せた。そのうちに、オレの足元を支えていたアスファルト舗装も途切れ、続くのは畦道。
「歩きにくいな」
「こんなもんでしょ。ほら、暗くなる前に行くよ?」