その⑧
どのくらい眠っていただろうか。
オレはベッドの上で目を覚ました。
腹の調子は幾分とマシになった。寝ぼけ眼を擦りながら壁の時計に目を向けると、午後八時を刺してある。大体、二時間の睡眠か…。
天野さんの用事も終わっているだろうと思ったオレは、ベッドから快活に飛び降り、廊下に出て、向かい側の天野さんの部屋の扉を開けた。
「おーい、天野さん。しりとりのリベンジをするぞー」
だが、部屋には誰もいなかった。
「天野さん?」
まだ絵を描いているのか?
オレは天野さんの部屋を出て、階段を降りようとした。
すると、下から田中太一さんが上がってきて、オレと目が合うと「どうも、克己さま」と深々と頭を下げた。
「あの、田中さん、帰っていたんですね」
「ああ、はい、三十分前に」
「天野さん何処にいるかわかりますか?」
「ああ、まだご主人さまのアトリエにいますよ?」
「まだ絵を描いてるの?」
いくら何でも長すぎじゃないか?
田中太一さんは口に手をやって微笑んだ。
「絵は、時間が掛かるんですよ。なので先ほど、お夜食の差し入れに行きましたから」
その言葉に、オレは目をギラリと光らせた。
「お夜食!」
「食べますか?」
「食べます食べます!」
「じゃあ、下にどうぞ。アトリエも一階にありますから」
オレは田中さんのやや曲がった背中に着いていき、一階に降りた。右に曲がって、先ほど夕食を食べた食堂に入る。
テーブルに、大皿置いてあり、その上に塩むすびが五個あった。
「握りたてなので、まだ温かいですよ。熱々がよかったらまたお米を炊きますから」
「いや、これでいいよ。ありがとう」
オレはホカホカのおにぎりを掴み、一口齧った。丁度いい塩加減。海苔の風味も効いていて、米もコンビニのものよりふっくらとしていた。
「それで、天野さんは?」
「ああ、こちらです」
田中太一さんは食堂から半分身を出すと、廊下の奥を指した。
「この先を行ってください。突き当たって左の部屋がアトリエですから」
「うん、行ってくるよ」
オレは残りのおにぎりを口に押し込んで、食堂を出ると、田中さんが指さした方向に小走りで向かった。
壁に突き当たり、左の部屋。
確かに、茶色の扉に「アトリエ」と白いプレートが張ってあった。
「ここか…」
そっと開ける。
「天野さん?」
少し開いただけで、絵の具のつんとした香りがオレの鼻を掠めた。入り口の傍に、何枚ものスケッチブックが重ねて置いてあり、床は絵の具でカラフルに染め上げられている。壁にも飛び散っていた。
天野さんは、部屋の中央に置かれた椅子にちょこんと腰を掛けていた。そして、その前に敷島明憲さんが座り、スケッチブックを手に彼女を写生している。
「天野さん…」
「ああ、克己くん」
明憲さんが振り返って、オレに微笑みかけた。
「どうしたんですか?」
「いや、天野さん、遅いなって」
「ああ、すみません。写生には時間が掛かるんですよ」
明憲さんはそう言って笑うと、手に持っていた鉛筆で天野さんを指した。
「ほら、天野様は、退屈になって眠ってしまいました」
「あ、ほんとだ」
確かに、天野さんは座ったまま目を閉じ、静かに眠っていた。そういえば、食事が終わってからも「眠い」って言ってたな。
首に、マフラーが巻かれていた。
「この暑いのに、マフラー?」
「いやあ」
敷島さんが照れ臭そうに頭を掻いた。
「せっかくなので、冬の格好をしている天野様も描いてみたくて」
「ああ、そういう」
それにしても、よく眠っていた。
「写生中だってのに、よく寝るもんだ」
「きっと、長旅でお疲れになったのでしょうね」
「そうかも」
オレはなるべく音を立てないように、抜き足差し足忍び足で敷島明憲さんの傍に寄った。
彼の手元を覗き込むと、白い紙の上に、天野さんの絵が描かれていた。
「すごいですね」
一本の鉛筆だけで、濃淡を調整して、ここまでリアルな絵を描けるなんて。
「余生の道楽ですよ」
敷島明憲さんは自嘲気味に笑った。
「敷島家は、五十年前のあの事件から、すっかり没落してしまい…、今じゃこんな山奥でひっそりと暮らす日々です」
「だけど、天野さんがあの事件を解決していなかったら、もっと酷いことになっていたんじゃ」
「そうですね。きっと、事件が解決していなかったら、敷島家はこの場所には無いでしょうね」
ふと、敷島明憲さんのえんぴつを持つ手が震えた気がした。
「私は、彼女に感謝しています。当時、猟奇殺人者に怯えて暮らしていた私たちの元に、風のように現れて、自分の身を呈して犯人を暴き、そして、風のように去っていった。私と田中は五歳の餓鬼でしたが、彼女のあの美しい姿は印象に残ったものです」
「美しい。ね…」
確かにそうかも。だけど、買い被り過ぎだな。お腹空いても食べさせてくれないし、一日に平気で四十キロ歩いたりするし、人の振る舞いは指摘する癖に、自分は着物を雑に脱いで、ほぼ裸の状態で過ごすし。
だけど…、この人といて、楽しいのは確かか…。
「克己さまは、天野さんとどうやって知り合ったのですか?」
「オレの村に、この人が来たんです。あんたの話の通り、風みたいに現れて、あの村を騒がせていた事件を解決して…」
「そうですか、羨ましいです」
「羨ましいかな…」
オレは目を閉じて眠る天野さんを見た。
「この人は、変な人ですよ。五百年生きているせいか、死生観が違う…。寿命を全うして死ぬことを望むのに、オレみたいに、理不尽な死に方をする奴が気に入らなくて、本人の了承も得ずに不死にしたもんだ」
「不死…?」
その時、敷島明憲さんの声が上擦った気がした。
ばっと振り返り、ただならぬ者を見たような形相をオレに向けた。
「あなたも、不老不死なのですか?」
「ん、ああ、はい」
そうか、言っていなかったな。
「そうですか…」
再びスケッチブックに視線を落とした明憲さんは、ぼそりと「うらやましいですね」と言って続けた。
「この方と、一生一緒にいられるんですから」
「一生は嫌だなあ」
これは切実に願っていることだった。
「敷島さんはこの人を買い被り過ぎですよ。一緒にいたらストレス溜まりまくりですから」
くるっと踵を返す。
「まあ、時間が許す限り、好きに描いちゃってください。天野さんが嫌がろうが、オレが許しますから」
「ありがとうございます」
部屋を出る時、オレは天野さんに言った。
「天野さん! 寝る前になったらオレの部屋に来いよ! しりとりのリベンジしてやるから!」
しかし、天野さんは眠りこけていて、オレの言葉に反応しなかった。
よっぽど疲れているのか…。そりゃそうか、この炎天下の中、ずっと歩いていたもんな。
オレはそれ以上は何も言わず、アトリエを後にして、自室に戻った。
ベッドの上に横になる。
腹の中のものが丁度いい具合に消化されたおかげで、胃袋が張る苦しみが薄れ、代わりに疲労が台頭した。木目調の天井を見ていると、自然と眠気が込み上げてくる。
質問コーナー
Q「天野さんはどうやって旅の資金を獲得しているんですか?」
A「日雇いのバイトです。ですが、彼女は五百年生きているので、日本各地に太いパイプを持っています。そこから食料や金を貰うこともできるようですね」




