その⑲
「克己!」
天野さんが動いたが、時すでに遅し。
オレの身体は、アパートの通路から手すりを乗り越えて、宙に投げだされていた。
「あ…!」
と、間抜けな声が洩れる。
腹の中の内臓がふわりと浮くような感覚があった。
夕暮れを過ぎて藍色になった空。遠くで鳴くキジバト。アパートの薄汚い壁。そして、にやりと笑う俊介。解放された視覚、聴覚、触覚が、自分の尻尾を追いかける猫のようにぐるぐると回った。
裏切られたことへの悲しみは湧いてきたものの、すぐに虚無が追い抜いた。
親父があの事件を起こす前から、オレは村人に何かと邪険に扱われていた。水を掛けられたり、罵詈雑言を浴びせられたり、そんなの慣れっこだったから、今更、オレのことを恨んでいる奴が一人や二人増えたところで関係無いと割り切ることができた。
だから、大丈夫なんだ。
次の瞬間、オレは重力に引っ張られて、アパートの前のアスファルトへと真っ逆さま。
ドスンッ!
と、オレは身体を硬いアスファルトの上に強く打ち付けていた。
あれで気を失えたらどれほど楽だっただろうか…。
オレの後頭部の頭蓋骨は陥没。肋骨も何本か折れたようで、それが刺さって、肺に鋭い痛みが走った。内臓も潰れただろうか? 料理を食べ過ぎた時のような、キリキリとした胃痛が腹を駆け巡る。
「く…、う…」
動けない。
頭上から、俊介の引きつるような笑い声が聞こえた。
「やった! 死んだ! 死んだ!」
うん、死んだだろうな…。
オレは、今日死ぬ。
よかったじゃないか。大嫌いなオレと、親父が死んで、村人はさぞ嬉しいだろう。どうだ? 赤飯を炊いたっていいんだぞ? なんなら、祭りでも開くか?
舌の付け根に、苦い味が込み上げた。
噎せた瞬間、黒い血が吹き出す。
ああ、こりゃ、完全に内臓やられたな…。
肺に血が流れ込んできて、少しずつ息ができなくなる。視界の端が、白から黒に、黒から白へと移り変わった。
誰かが歩いてくる。その足音が地面を伝ってオレの脳に響いた。
「今まで、五百年生きてきたけど…、あんたみたいな人間と会ったことは無かったわね」
天野さんが、オレを見下ろしていた。
辞めてくれ。しゃべらないでくれ。その言葉さえも、今のオレには、頭を殴られたような痛みに変わるんだ。頼むから、もう、静かにしていてくれよ…。
天野さんはオレが血だらけで倒れているのを見て、至って冷静に動いた。
「さて、ここで質問です」
「…………」
「君は、生きたいかな?」
「………」
しゃべることができない。代わりに、オレは目で「死にたい」と訴えた。
もう死んで、楽にさせてくれ。
オレの心を理解したのかどうか、天野さんはにやっと笑った。
「無粋な質問ね。例えあんたが『死にたい』と言おうが、『生きたい』と言おうが、決めるのは私だもの」
次の瞬間、天野さんは奇妙な行動に出た。
錫杖を右手から左手に持ち帰ると、留守になった右手首に噛みついたのだ。
ブチッと、彼女の手首の皮が噛みちぎられる音がしたと思えば、アスファルトの上にびちゃびちゃと彼女の赤い鮮血が流れ落ちる。
「他のみんなには、内緒だよ?」
血の滴る手首を、オレの口元に持っていく。
抵抗しようにも、身体が痺れて動くことができなかった。
半開きになったオレの口に、彼女の手首から流れ出した生暖かい血が流れ込んでくる。
さらりとした液体は、オレの喉を滑り抜け、胃に流れ込んだ。
腹の底が、ぐつぐつと煮えるように熱くなる。
「………」
オレは天野さんを見た。
天野さんは、優しく、にこっと微笑んだ。
「ごめんね」
オレは気を失った。
質問コーナー
Q「こんなトリックで大丈夫なんですか?」
A「無能物書きが考えたトリックです。気にしないでください」