その㉚
一週間後。
九州北部にある、とある農場にて。
「天野さま…」
東京ドーム三個は有にありそうな、広大な土地に飼われている山羊を、天野さんと一緒に撫でていると、その農園の主である老人が近づいてきて言った。
「一週間前にご依頼された品、完成しましたよ」
天野さんの話によると、ここは、創業百年の歴史ある農園で、八十年前に起こったとある事件を解決して、以来懇意にされているらしい。
老人はにこにこ笑いながら、天野さんにあるものを渡した。
「犬用の、馬具でございます」
天野さんが、ここの農園の主に依頼したもの。それは、犬用の馬具だった。上等な革と、美しく研磨された金具を使った一級品。
「うん、いい出来だね」
天野さんは満足げにそれを受け取った。
草原の方を振り返り、名前を呼ぶ。
「おーい! マサムネ! 茜ちゃーん!」
すると、丘の向こうから、「はーい!」と「ワンッ!」という声が聞こえ、マサムネと茜が、はしゃぎながらこちらに駆けてきた。
息を切らしながら、茜がオレと天野さんの前に立つ。山羊やマサムネと散々戯れたのか、体中に芝生が付いていた。
「なあに? アマ姐」
「ちょっと、これ試してみてよ」
マサムネにお座りをさせ、背中に今しがた届いたばかりの犬用馬具を装着する。マサムネをぶるっと身を震わせたが、嫌な顔はしなかった。
「はい、乗ってみて」
「え、いいの? マサムネ、潰れない?」
「マサムネを舐めちゃだめよ。なにせ、長崎で私を噛み殺したほどの力を持っているんだからさ」
「わ、わかった」
そろそろと、マサムネの背中に跨る茜。
マサムネは「ワンッ!」と吠えると、横綱のように堂々と立ち上がった。
「うわ! すごい! マサムネすごい!」
「ワンッ!」
「茜ちゃん、手綱はしっかり持ってね。それから、この輪…ペダルみたいなところにしっかり足を掛けるのよ? じゃないと振り落とされるから」
「うん!」
茜が手綱を握りしめた瞬間、マサムネが勢いよく駆け出した。
突然の揺れに、茜は思わず身を縮ませ、「きゃあ!」と悲鳴を上げた。
茜の悲鳴を聞いて、立ち止まるマサムネ。首だけで振り返り、茜を心配そうに見た。
「ごめん、マサムネ、大丈夫だよ」
茜は顔を上げて、マサムネの頬を撫でた。
「お願い、ゆっくり走って」
「ワンッ!」
茜の言葉を理解したマサムネは、言われた通り、ゆったりと走り始めた。
運動神経が良いのだろう。茜はすぐにマサムネの上で身体を安定させ、牧場を悠々と闊歩している山羊らを追い始めた。追ってくる狼犬と、その上に跨る少女に、山羊たちは悲鳴を上げながら小屋の方へと走っていく。
それを眺めていると、天野さんがオレの頭を撫でた。
「これから、長い旅になるからね。茜ちゃんはまだ長い距離は歩けないから、マサムネに運んでもらうことにしたよ」
「すげえな、マサムネ」
「そりゃあ、伊達に百年は生きてないよ。そして、私の帰りを百年待ち続けた忠犬だからね。きっと、茜ちゃんを支えてくれるわ」
「そうだな」
そうしていると、一匹の山羊がオレたちの方に歩いてきて、「めえ」と鳴いた。
オレは山羊の口に、足もとから引っこ抜いた芝を押し込みながら、一週間前のことを言った。
「助かったよ。天野さんが来てくれなかったら、茜は死んでた。まあ、代償で不老不死になっちまったけど」
あの後は早かった。
竹下俊と茜の親父の関係、そして、オレと茜への殺人未遂。この二つから警察の疑惑を買い、詳しく調べられることになった。そして、逮捕に至った。
茜には親族がいなかった。だから、県内にある施設に入れられる前に、オレたちが連れ出した。茜はそれを拒まなかった。むしろ喜んでついてきた。それでよかったんだ。あいつはもう、オレや天野さんと同じ「不老不死」だから。
「茜ちゃんを連れて逃げる時に、マサムネを連れて行かなかったのは正解ね。あの後、マサムネが私のところに来て、あんたの所に案内してくれたから。もう少し早く着けばよかったけど、克己が命張ったおかげで、私の血が間に合った。うん、よく頑張ったよ。偉いね」
「偉くねえよ」
オレはぷいっと顔をそむけた。
「誰だって…、そうするだろ? 目の前で命が失われようとしてんだ。しかも…、七歳のガキだ。まだ、人生を謳歌してないガキだ」
「ううん、偉い」
天野さんがオレの頭をくしゃくしゃっと撫でる。
「私の血には…、他者を不老不死にする効果があるけど、私はそれをむやみやたらに使わないの。だって、人は死ぬものだから。使うときは、私が『生きてほしい』と思った人だけ。別に、差別をしているわけじゃないの。あの子は、まだ生きてすらいなかった。生きることの大切さを知らなかった。だから、『生きてほしい』って思ったの。克己…、あんたみたいにね」
「………」
山羊を小屋に収納し終えたマサムネが、茜を乗せてこちらに走ってくる。
それをほほえましく見ながら、天野さんは言った。
「茜ちゃんは…、今から生き始めたわ」
「…そうだな」
「アマ姐! かつ兄!」
茜が走りこんできて、軽快にマサムネから降りる。
「ねえ、これからどうするの?」
「そうね、茜ちゃん。これから、私とマサムネ、克己と一緒に、『不老不死を治す方法』を見つけに行くのよ」
「不老不死を治す方法?」
「うん、このままだと、みんな歳をとることができないからね。長い旅だよ? 頑張れるかな?」
「うん! 頑張るよ! 私、アマ姐と、カツ兄、マサムネともっと一緒にいたいもん! どこにだって行くよ!」
「決まりね」
天野さんが茜の小さな頭を撫でる。
暖かい風を浴びながら、オレは天野さんに聞いた。
「で? 次はどこに行くんだ? 沖縄か? 北海道か?」
「そうねえ」
天野さんは少し考えてから言った。
「とりあえず、箱根の方に行こう」
「箱根だあ?」
箱根って…、ええと、神奈川だろ? ここ九州だぞ?
「なんで箱根に?」
「ほら、前に言ったでしょ?」
天野さんは指を立てた。
「私の血には、他者を不老不死にする能力があるって」
「おう」
「私は今までに、三人と一匹を不老不死にしてきたって」
「おう。言ったな」
一人はオレで…、もう一匹がマサムネ。
じゃあ、あと二人は…?
「うん?」
「うん、そのうちの一人に会いに行こう」
「へ?」
オレは目をぱちくりとさせた。
「生きてんの?」
「そりゃあ、私の血を飲んで不老不死になったんだから、生きているに決まっているでしょうが。あの子と別れたのは…、ええと…、何年前だっけ? 天保の飢饉のころだから…、百八十年前か…。元気にやっているのかしらね」
「おいおい、このバカ犬じゃあるまいし、もうそこにはいないだろ」
「いるんだな、これが」
天野さんはにやっと笑う。
オレと天野さんの間に、茜が割って入ってきた。
「なあに? 次はどこに行くの?」
「うん、次は私の友達に会いに行くよ」
普段のんびりとしている天野さんが、一度「行く」と決めたら、もう動かない。にこにこ笑顔でオレたちに手招きをして、歩き始める。
「克己、茜ちゃん、マサムネ…、さあ、行くよ。私たちが生きるための旅だ」
「へいへい」
オレはいつも通り、けだるい返事をして彼女の背中を追う。
「はーい!」
茜が元気な声を上げてマサムネに跨る。
「ワンッ!」
百年ぶりの、主人との旅。マサムネの声は心なしか嬉しそうだった。
「なんだか、にぎやかになっちゃった」
天野さんが笑う。
オレは隣を歩く茜の頭をぽんぽんと撫でた。
「なあに? かつ兄」
「いや、まあ、これからよろしくなって…」
「うん! よろしく! かつ兄!」
次の目的地は、箱根。
旅はまた始まる。
新たな仲間を引き連れて、人魚のいざなうままに。
第五章…完結




