その㉙
「おいおいおいおい…、てめえ、マジか」
「………」
絶命の淵に立ちながら、オレは竹下俊の足首を掴んでいた。
死んでいる。オレの身体は死んでいる。もう、肺も、心臓も止まっている。機能していないはずだ。それでも、竹下俊の足を掴んでいた。
羽虫のような弱弱しい力で、竹下俊の足を、掴んでいた。
「……てめえ、マジで不死身か?」
「………」
言葉は出ない。
三十年間、オレはずっと、天野さんに守られてきた。だから、今度は…、オレも、オレみたいに周りから蔑まれてきたやつを、助けたくなったんだ。
お前は生きていていい。これからもずっと、「幸福」ってやつを追い求めていい。そう伝えたかった。だってそうだろう? 生まれた環境が悪かったとか、運が悪かったことぐらいで…、生きるのをあきらめるなんざ…、馬鹿げているだろう?
生きるのは茜だ。
生きる価値を見出すのは、オレだった。
「………」
最後の力を振り絞り、竹下俊の足首をきゅっと掴む。
竹下俊は舌打ちした。
「殺してやるよ」
ジャコッ! と、猟銃に弾を装填する。
銃口を、もう動けないオレの脳天に突き付けた。
そして、一切の迷いなく、引き金を引こうとする。
その瞬間、どこからともなく、何かが猛烈な勢いで迫ってくるのが分かった。
「噛め! マサムネ!」
希望を見出す、天野さんの声。
横から飛び出してきたマサムネが、敵意むき出しの声で唸り、竹下俊が構えた猟銃に噛みついた。
「うわ!」
突然現れた獣に、間抜けな声を上げて身じろぐ竹下俊。
マサムネは「グワンッ!」と、鳴きながら、猟銃を竹下俊が引きはがそうとした。
犬と人間の力比べ。勝ったのは、人間の方だった。
「この! くそ犬!」
竹下俊が、マサムネを投げ飛ばす。
マサムネは地面を転がった後、華麗な受け身を取って立て直した。
そのまま、竹下俊に向かっていこうとする。
だが、竹下俊が引き金を引いた。
ドンッ!
肩辺りに命中し、マサムネは血を噴き出しながらのけ反った。
「くそ! なんだよ!」
竹下俊は完全に冷静さを欠いていた。
次の弾を込めようと、ベルトのホルダーに手を掛ける。だが、震えていたせいで、弾丸を地面に落としてしまった。
拾おうと身を屈めた瞬間、そこに、天野さんが走ってきた。
タイミングよく、木々の間から朝日が差し込み、彼女を白百合のように照らし出す。
天野さんは右手の錫杖を長く持つと、柔らかい土の上をカモシカのような勢いで蹴り飛ばした。身を低くし、錫杖の刃先を地面に擦りながら迫る。
そして、「はあっ!」という声とともに、錫杖をかち上げた。
「ぐへえ!」
顎を打たれた竹下俊は、猫が踏みつぶされたような声を上げて吹き飛んだ。
そして、猟銃も、サバイバルナイフも放り出して、背中を地面に強打。ぱったりと動かなくなった。
犯人が反撃してこないことを確認すると、天野さんは額の汗を拭った。
「ふう…、ギリギリセーフ…」
オレの方を見る。
「ってわけでもないか」
血まみれのオレに駆け寄る天野さん。
着物の裾を膝に折りこみながらしゃがみ込むと、あと一歩で絶命するオレの頬を撫でた。
「ごめん、来るのが遅くなっちゃった。マサムネがいて助かったよ。匂いで追跡できたから。ってか、大丈夫? 克己」
「………」
しゃべれない。
大丈夫じゃないことくらい、見たらわかるだろ?
「まあ、見たらわかるんだけどさ」
天野さんは自虐気味に言うと、それから、オレの身体を揺すって、横にずらした。
そこには、オレから流れ出した血で真っ赤に染まった茜が眠っていた。
オレは眼球だけを動かして天野さんに訴えた。
「………」
天野さん…、頼む。
「うん、わかった」
天野さんはオレの心を読んだように頷くと、また、オレの頬を撫でた。
「頑張って、茜ちゃんを守ったんだね。偉いよ。克己は私の誇りだ」
「………」
今はそんなことどうでもいいんだよ。
頼むよ。
「うん、大丈夫」
茜の首に手を当て、脈を確かめながら天野さんは頷いた。
「まだ生きてる。だけど、もうすぐ死んじゃうね」
錫杖を短く持ち、刃先で手首を切る天野さん。傷口から血が溢れだし、地面に滴った。
「あんたが命がけで守ったんだ。きっと、この子には『生きる理由』がある。そういうことでいいよね? まあ、理由がどうであれ…、私は、私が『生きてほしい』と思った人に、この血を分け合えるんだけど…」
天野さんが、茜の小さな口に、手首から流れ出す血を入れた。
人魚の肉を食って不老不死になった天野さんの血には、他者を不老不死にする効果がある。オレも、マサムネも、その血のおかげで生きながらえている者たちだ。そして、茜も。
茜に生気が宿った。
「……」
天野さんがオレの目に手を当てる。
「少し休みなさい。目が覚めたら、楽になっているからね」
「………」
天野さんが、オレの瞼を下す。
その瞬間、オレは絶命した。