その⑩
「オレの部屋から、血の臭い?」
試しに鼻をひくつかせて匂いを嗅いでみる。しかし、オレの鼻孔をくすぐるのは、すぐ近くの畑から漂う香ばしい土の香りだけだった。あと、日当たりの悪いアパート特有の黴っぽい臭い。というか、血の臭いなんて嗅いだことがないのでわからなかった。
もしかして、天野さん、オレにそれっぽいことを言ってここに待機させて、部屋のなかのものを物色している? でもなあ、オレの家なんて貧乏だから、盗むもんなんて無いんだよなあ…。しいて言うなら、俊介に借りている漫画本くらいだけど…。
じれったくなって、オレは錫杖で地面を打った。
錫杖の先の金具がぶつかり合い、シャランッ、と澄んだ音を響かせる。崇高な音だった。
天野さんのことを疑わしく思いながらも、オレは彼女の言いつけを護って、扉の前で待った。きっとそのうち「もういいよ」なんて言って出てくるものだと思っていた。
しかし、いつまで経っても天野さんは部屋から出てこない。
「…………」
尿意が催したオレは、背中の辺りにじとっとした汗を掻きながら天野さんを待った。それから十分経っても天野さんは部屋から出てこない。
次第に待つのが馬鹿らしくなったオレは、ため息混じりに扉のドアノブを掴むと、捻って一気に開け放った。
「おーい! 天野さん? 入るぞー!」
扉を開けた瞬間、鼻を突くような異臭が、肌を舐めるような生暖かい空気と混ざりあってオレに押し寄せてきた。オレは「え?」と間抜けな声を上げて、濁流に押し流されるかのように扉から離れた。
「なんだ、今の臭いは…!」
心臓が口から飛び出そうになるくらい脈を打っている。
天野さんが、神妙な面持ちで言った「あなたの部屋から血の臭いがする」という言葉が、今まさに深い意味を持ってオレの脳天を打ちぬいたようだった。
オレは扉を開けると、靴も脱がずに部屋に飛び込んでいた。
「天野さん!」
親父が食べたまま放置したカップ麺やコーラのボトルの散乱するリビングを抜けて、フローリングの方に飛び込む。その瞬間、足に柔らかいものが引っかかる。
「うわ!」
バランスを崩して、前のめりになる。
手を突くこともできず、オレは顔面から床に突っ込んでいた。
ゴツン! と鈍い音が響き、オレの鼻先から脳天に掛けてツンとした痛みが駆け抜けた。
「いててて…」
オレは顔を床に手をついて身体を起こすと、激痛で痺れる鼻先を抑えた。鼻血は出ていないようだ。それなのに、オレの手のひら、腕や胸の辺りが、生暖かくてどろっとしたもので真っ赤に染まっている。それからは、鼻を突くような異臭が漂っていた。
「……」
血のような液体。いや、もう血と断定していいだろう。
それは、オレの部屋のフローリングを浸食するようにして広がっていたのだ。
オレは身体が腹の底から震えるのを感じながら、恐る恐る、振り返った。
「天野さん…!」
オレが足を引っ掛けて転んだもの。
それは、喉元を鋭利な何かで掻っ切られて絶命する天野さんだった。
それだけじゃない。
天野さんの死体があるすぐ傍の壁に、オレの親父がもたれかかって動かなくなっていたのだ。親父の首は、天野さん同様に鋭い刃のようなもので裂けて、そこから赤黒い血液が水漏れを起こした水道管のように、ゆっくりと、でも一定のリズムを刻みながら滴っていた。
「親父…」
親父に駆け寄りたかったが、足元には血の海。下手に動けば、血で足をとられて転ぶだろう。
オレは天野さんの隣でじっとして、親父の死体を茫然と眺めるしかできない。
なんで?
疑問だけが頭の中を、尻尾を追いかける猫のようにぐるぐると回った。
「親父…、天野さん…?」
なんで二人が死んでいるんだ?
一体だれにやられた?
もし、二人が誰かにやられたとして、その犯人は…、一体何処に?
「あ、ああ…」
腰が抜ける。
失禁寸前で、その場にしゃがみ込もうとした瞬間、背後で聞き覚えのある声がした。
「何やってんの、早く警察と救急車を呼びなさいよ」
「え?」
振り返る。
そこには、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた天野さんが立っていた。
「あ、天野さん? なんで…?」
オレの見間違いだったのだろうか? 先ほど、床に仰向けになって倒れこんでいた天野さんの首元には、鋭利な刃で裂かれたような傷があり、そこから尋常ではない量の血が流れ出ていた。間違いなく死んでいたはずなのに、今、オレの前に立ち、見下ろしてくる天野さんの首には、傷が無かったのだ。
「天野さん、死んでたんじゃ…」
「説明は後よ」
天野さんは真剣な眼差しでオレを見た。
「これは、殺人事件よ」
質問コーナー
Q「克己の趣味はなんですか?」
A「趣味という趣味はありません。木の枝で釣竿を作り、池の鯉を吊り上げたことを武勇伝にしています。。時々、記録更新のために奮闘中です。