月下《He grieved it》①
――DMー8『宵闇と黄昏の世界』/迷いの森――
3日前から続いていた激しい雨が夕方になって止むと、暗雲に囚われていた月はくっきりとその丸い輪郭を浮き彫りにした。薄ら寒い森の土や樹々や草花は未だその名残を湛え、雫の中に黄色い満月を携えている。
そんな鬱蒼と生い茂る暗い森の中――乱れる呼吸を意識的に飲み込む唾で区切りながら、奔る少女。年の頃は二十歳前後。ぬかるんだ地面と木の根や石に足を取られながらも、前へ前へと疾走する彼女の意識は、しかし自分の後方へと向けられていた。泥だらけになっている彼女のドレスが、転倒の数と必死さを物語っていた。
彼女が只管に走り続け、どれほど距離を取ったつもりでも、彼女の背後から迫る影は一定の間隔を維持したままピタリと付いてくる――。
(助けて――! 誰か――!)
走ることに精一杯で、彼女はまともに声を出すことも叶わない。もとより夜中の森で助けを求めたところで、白馬の王子が来ようはずもなかったが。
影に距離を弄ばれながら、自分が何処へ向かっているのかすら判らぬまま闇雲に逃げていた彼女が、ようやく森を抜けたかと思うと、その先は川であった。
「!!」
普段であれば無理をすれば渡れぬことはない川幅と深さである。しかしここ数日の雨による増水で、その流れは彼女の力では抗えぬと一目で解る急流となっていた。おまけに疲労と恐怖で彼女の膝は震え、最早立っている事すらままならない状態である。
「――散歩はもう終いかね?」
嬉しそうな、ヒンヤリとした静かな声が、背後に忍び寄る影から発せられた。
「いや……来ないで……」
恐怖に慄く彼女の瞳に映るのは、どこからが影であるかも判らぬほど黒い、身の丈に近い長さの黒い外套に身を包んだ男。――縦に緩く巻かれた灰色の長い髪。血液の活動を感じさせない不自然に青白い肌。筋の太い高い鼻と薄い唇、そして暗闇でも赤々と光る、吊り上がった冷たい眼。その風貌からすれば歳は50に満たないであろうと思えたが、嗤う口から覗かせた白い牙が、その男には年齢など無意味であることを示していた。
「ふふ、その表情――恐怖を感じているなあ……?」
――紛れもなく、男は吸血鬼であった。
「嗚呼……素晴らしい。恐怖という感情の昂ぶりは、お前の血をより一層美味なものへと変えるのだよ……」
吸血鬼は招くように両手を広げ、腰砕けの状態で後退る少女に、一歩、また一歩と、喜びを噛み締める様に近寄る。
(たす……助け――)
囁く様な少女の哀願は川の流れる音に負けて、誰に届くことも無かった。宵闇に響かせることが出来たのは、その後の悲鳴だけであった――。
――少女を堪能した吸血鬼は、血塗れの口元を白いハンカチで拭うと、それを鼻に近付けて、深く匂いを吸い込んだ。満足そうに微笑む彼の後ろから、甲高いしゃがれ声。
「ガウロス様」
話し掛けたのは、木の枝に逆さに留まる単眼隻脚の蝙蝠であった。すると吸血鬼ガウロスの表情が曇る。
「余韻を妨げるな、無礼者」
ガウロスが肩越しに睨むと「失礼致しました」と、蝙蝠。
「――何の用だ?」
ハンカチを胸のポケットにしまうと、ガウロスが振り返った。
「ご報告を――。極東の地セベンダルよりこのエイベルデンへ、狩る者が参ったようです」
蝙蝠が瞼でお辞儀をするように、単眼を徐に閉じて恭しく言った。
「吸血鬼狩りだと……? そんな報告のために、我が興を削いだのか?」
「ただのハンターでは御座いません。……黒銀の鎌の男で御座います」
「黒銀の鎌の――」
ここ数年、各地で力のある吸血鬼を次々と葬っているハンターがおり、その男が黒く光る鎌を得物としているという噂はガウロスの耳にも届いていた。
***
闇を切ったのは黒光りする刃――。追い詰められたボロボロの吸血鬼は、既のところで己の身体を蝙蝠に分裂させ鎌を躱すと、距離を取ってから再び元の姿へと戻った。3階建ての屋敷の屋根の上で対峙する、吸血鬼と黒銀の鎌の男。――数分前に建物へ放たれた火は次第に燃え拡がり、屋敷から舞い上がる炎と火の粉が満月の夜を照らしていた。
灰色で短い髪の若い吸血鬼は黒装束の至る所を切り裂かれ、人間であればとうに失血死している量の血を垂れ流している。それに対する鎌の男は傷一つなく、冷淡な瞳で吸血鬼との間をジリジリと詰めていく。
――男の名はレイナルド・コリンズ。吸血鬼狩りである。身長は相手の吸血鬼よりも少し高く、180センチ強といったところ。胸には十字架のペンダント。漆黒で丈長のジュストコールと暗紅紫色のジレ、膝丈の黒いキュロットから繋がる鞣し皮のブーツ。腰のベルトの左側に、ラッパ状の短銃を吊り下げている。
腰の上辺りまである長い髪の、左側だけが灰色で右半分は艶のある黒。切れ長の目も左眼は赤く、右眼は深淵の様に深く沈んだ黒である。スゥと伸びた鼻、真一文字に噤まれた薄い口、細い顎。肌は健康を疑う程度に血色が悪い。
美醜を問われれば間違いなく美に属する容姿ではあるが、どこか爬虫類を思わせるような人間離れした冷たさがあった。
彼が右手に持つ、銀の装飾が施された長く黒い鎌――湾曲したその刃に付着した吸血鬼の血は、滴り落ちることなく鎌に吸収されていった。するとほんの微かにではあるが、刃の色が黒みを増した。その様子を燃えるような赤い瞳で睨みつける吸血鬼。
「呪われた銀の鎌……それほどまでに黒く染め上げるとは、貴様一体どれほど我らの眷族を――」
聖職者の祝福を受けた純度の高い銀は、吸血鬼の血液と反応するとそれを取り込み、黒い光沢を帯びて強度を増す。レイナルドの鎌が、この闇夜ですら妖しく輝く『黒』を得るまでに屠った吸血鬼の数は、この数年で百を優に超えていた。
「貴様ごときに……!」と、吸血鬼が憤った次の瞬間。
「!?」
刃が鋭く閃き、吸血鬼の足元には彼の右腕が落ちていた。――大量の血がザバザバと流れ落ちる。
「グ……おのれ……」
先程の分裂は最後の力を振り絞って行ったもので、最早吸血鬼に闘う力は僅かしか残っていなかった。腕以外の切り傷からも血は流れ続けていたが、それを治癒することも叶わなかったのであった。
決死の覚悟の吸血鬼が、口から紫色の煙を吐き出しその煙幕の中から、鋭く伸びた左の爪で突き上げる。レイナルドは鎌の柄でそれをガキンッと止める――すると吸血鬼は首をゴムの様に伸ばして、爪とは対角の上方から、がら空きになった彼の喉元へと牙を向けた。
しかし両手で柄を掴んでいるレイナルドの左肩から、真っ赤に濡れた3本目の腕が生え、それが襲い掛かる吸血鬼の顔面を鷲掴みにして抑えた。
「『血の腕』――!? 貴様まさかっ?!」と、驚愕する吸血鬼。
レイナルドは相手の反応を気に留めることなく、鎌の柄から左手を離すと素早く腰の短銃を引き抜いて発砲――大量の銀の礫によって腹部に巨大な穴を空けられた吸血鬼は、屋根から転げ落ちていった。





