『次期国王』
ずっと昔、本で読んだことがある。
ようやく結ばれた恋に、幸せ一杯でベッドの中、キスを交わす二人。
私とは全く無縁の世界だと思っていた…思っていたけれど、人生何があるかわからないものだ。
状況的にはもう後数センチで口と口がくっ付きそうなのに、その雰囲気に甘さは微塵もない。それどころか、微かな殺気さえ感じるのだから、幸せとは程遠いものだろう。
そんなことを、目一杯顔を歪めたハルカに見下ろされながら思った。
「おい。聞いてんのか、テメェ」
「…」
最初の面影は何処へやら。すっかり人が変わってしまったハルカはドスを効かせた声と共に、私を睨みつける。
「いや…えっと…さっきのって、いきなりハルカ様の口調が変わったこと…ですか?」
「ああ、そうだ。絶対に誰にも言うな!」
掴まれている手に力が込められ、痛みで思わず目を瞑る。
「…理由を聞いても良いですか?」
「ァア"!?テメェに教える義理はねぇよ」
…この人、実は二重人格なんじゃないかな。
あまりの豹変ぶりにそんな呑気な考えが浮かぶ。
しかし、恐らく今までの態度の方は演技だったのだろう。だとして何故そんな真似をする必要があるのか。
普通に理由を聞いても、ハルカは教えてくれそうにない。だが、それは想定内だ。
「…黙ってて欲しいんですよね?」
私が挑発するように笑みを浮かべれば、ハルカの様子が変わる。詳しくいうなら表情が抜け落ちた。
「…」
私の手を拘束している手とは別の手で握り拳を作ったと思えば、私の頭上にある壁に思いきり拳を打ち付けた。
「!!」
ハルカが覆い被さっているこの状態では見ることができないが、パラパラという音が聞こえることからレンガの壁に亀裂が走っていることがわかる。
流石にこればかりは、背筋に冷や汗が流れた。
「…『調子に乗ってると殺す』って言ったよなぁ。それとも、よっぽど俺に殺されてぇのか?」
未だかつて聞いたことのない低い声に、心臓がバクバクと早打つ。
それでも、ここで屈するのは皇女の名折れだ。
…どれだけ怒っていても殺せない!こんなの、ただの脅しだもん!負けてたまるか!
「殺されたくないです!でも!気になります!私は此処に縋り付くしかない!貴方達の言うことを聞くしかない!だったら、せめて貴方達のこと!少しくらい知りたいです!」
「…チッ!!」
盛大に舌打ちしたかと思ったら、ハルカは私の上から退き、そのままベッドに腰掛けた。私も上半身を起こし、ハルカの横顔を眺める。
徐にハルカは口を開いた。
「…理由は俺が第一王子だから。以上!それだけだ」
「…え?それだけ?」
あまりに呆気ない説明に、つい聞き返してしまう。
「他の王子達は別に普通じゃないですか?」
王子だから演技をして態度を正すのは納得できる。だが、他の王子…特にシンラは正すどころか、世界中に居るどの王子達よりも態度が悪いだろう。
本当に礼儀というものを知っているのかさえ疑問だ。
「あいつらは『王』にならねぇ。だから外交関係さえきちんとしてれば良いんだよ。だが、俺は違う。この国の次期『王』になる。部下を纏める為にも、ある程度取り繕う必要があるんだよ。父上からの命令だ」
「…」
淡々と言われた言葉は想像以上に私の胸に迫ってきた。
この気持ちが何なのか私にもわからない。
だがしかし。私は初めて、ハルカがこの国の『王』になる人物だと心の底から実感した。
「…そっか…」
「ァア?」
溢れてしまった言葉に、ハルカが唸る。これ以上言えば、余計に怒らせてしまうかもしれない。
しかしながら、どうにも自分で抑えられそうになかった。
「凄いですね!ハルカ様は!」
「!…は?」
はっきり言って、演技をしてもしていなくても、ハルカは王になるにはかなり短気で器も小さい。にも関わらず自分が国を背負って立つ為に、苦手なことに努力している姿は、素直に尊敬する。
皇女として里を守れなかった私とは大違いだ。まあ、滅したのも彼等だが。
「あ!でも、私は今のハルカ様の方が好きですね」
「…」
私が笑い掛けると、ハルカは怪訝な表情で私を見た。「一体何を言ってるんだ、こいつは」とでも言いたげな表情だ。
…まあどうせ、馬鹿にされるって思って言ったし、別に良いけど…。
小さく溜め息を吐くと、隣から微かな振動がベッドを伝って届いてきているのに気が付いた。
「…ククッ!ハハハハハハ!!」
「!?」
…笑った!?
いきなり声を上げて笑い出したハルカにこちらが目を見開く。
今何か面白いことがあっただろうか。訳がわからず、ただハルカを凝視する。
「ハハ!はぁ…」
ひとしきり笑って満足したのか、ハルカは私の方に顔を向けると、柔らかい微笑みを見せてくれた。
その初めて見る優しい表情に、心臓が小さく高鳴る。
だがその珍しい表情は、一瞬にしていつもの意地悪い笑みに変わった。
「?…あの…」
「…へぇ…そんなに好きなら良いものくれてやるよ」
「へ?良いものって…ッ痛〜!」
瞬く間に私のリボンを外し、ブラウスをずらすと、露わになった首筋にハルカは歯を立てた。甘噛みなんて優しいものじゃない。本気で力を入れている。
肉と皮が裂け、血が首から鎖骨を伝う感触。
しばらくして、ハルカは流れた血を舌で舐め取ると、私の首元から顔を離した。
「〜ッ!な、なな!何してるんですか!?」
首に付けられた歯形を右手で押さえながら、ハルカに向かって叫ぶ。当のハルカは舌なめずりをして唇に付いた私の血を取っていた。
「何って、噛んだだけだろ。そんなことで叫ぶな。後でシンラ達に何してたか聞かれるのが面倒なんだよ。傷でも付ければ、説明する手間が省ける」
当たり前だと言わんばかりにそう告げるハルカだが、そんなくだらない理由で痛い思いをした私としては、ふざけるなと抗議したいところだ。
理不尽な行動に対する怒りで拳が震えている私のことなど露知らず、ハルカは「おい」と私を見た。
「?はい」
「先に檻へ行っている。お前は絆創膏でも貼ってから来い」
それだけ伝えると、さっさとハルカは部屋から出て行った。
…。
ハルカの部屋に一人残された私は、ハルカが出て行った扉をただ見つめる。
「優しいのか意地悪なのか、よくわからない人だなぁ」