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薬草をまとめた本、方位磁針、着替えにマッチ箱、湯飲みと小皿、匙類、丸薬、丈夫な縄、財布などを一つの革鞄に詰め込む。クレイオの所で買った旅ができる男物の服を着て、ヴィオがソラヤに贈った髪飾りで髪を結う。拍子様が縫ってくれた外套に付けられた頭巾を目深に被り、ランタン用の鞄を作ってもらったので、それに入れて体の前側にくるように肩掛けする。靴は丈夫な編み上げ長靴。手袋を鞄の後ろのかくしに入れる。
「いいか、とにかく一人で行動するんじゃない。どこへ行くにも傭兵を雇うんだ」
「どこで雇えるんですか?」
「剣と盾の文様が描いてある店に入れば傭兵を紹介してくれる。その中で一番安い奴を雇えばいい」
そこは一番有名な傭兵紹介所で、比較的信頼できる組合だ。
「安い人で大丈夫なんですか?」
「安い奴は弱いか訳ありだ。旅の護衛ならそんなに強くなくてもいい」
近くに傭兵がいるという事が重要で、居ないよりはずいぶん違うはずだ。
「そうなんですか」
「いいか、絶対に女だって知られるなよ。あんまり自分の話をしたりもするな」
「そこは大丈夫です。あんまり自分の事を知りませんから。それより、髪は切った方がいいですか?」
「髪の長い男もざらに居る。髪が長い方が印象を変えやすいから便利だろう。普段は頭巾を必ず被っていればいい」
体の線が出ないように大きめの服を新調した。色味も派手にならないように暗い色ばかり選んでいる時、ソラヤは可愛くないと文句を言い続けた。
「夜寝るときは火を絶やすなよ」
「はーい」
「腹は減っても茸だけは食うな」
「はいはい」
「雨の日は出歩かない」
「分かってますよ」
「危険を感じたら真っ先に逃げるんだ」
「もう、何回も聞きました」
ソラヤが家の玄関とは別の店の出入り口前で立ち止まって、こちらを振り向く。彼女は今日、この家を出ていく。そして二度と戻ることは無い。
「おじさん、何から何まで用意して頂きまして、ありがとうございます」
長袖に長ズボン、頭巾に外套という姿は夏の終わり頃にしてはとても着込んでいて、暑苦しく思える格好だ。
「気にするな。俺が好きでしたことだ」
「それでは行きますね」
「ああ」
俺が軽く頷くと、ソラヤは少し困った顔をして俺の顔を覗き込んできた。
「それだけですか?」
「何を言ってほしいんだ」
「気をつけて行けよ、とか。達者でとかないんですか?」
確かにこの別れは今生の別れになるかもしれない。ちゃんとした大人ならそう言って、送ってやるのが一番いいのだろう。
「そうだ、忘れてた。これを持っていけ」
俺はソラヤの腰に巻いた調帯に黒いナイフを差してやる。
「これは、おじさんが仕事をするときに使っていたナイフです。貰えません」
そのナイフはミネットが俺に初めて贈ってくれた思い出のある品だ。
「家にある一番切れる刃物はそれしかない。旅には何かと使えるだろう」
「おじさんが仕事できなくなります」
「魂の糸を切る刃物何てなんでも構わないんだ。鋏でも包丁でもな。いいから持っていけ」
ソラヤは申し訳なさそうにゆっくり頷いて、もう一度礼の言葉を述べた。
「そろそろ行け、キュフたちが待ってんだろ」
クレイオが山を越えた次の町まで送って行ってくれるというので、ソラヤとキュフはここより西にあるグッタを目指すことになった。
「私、おじさん達の恩を台無しにしないように頑張りますね」
「いいよ、頑張らなくて」
「え?」
俺はソラヤの人生に大きく関わって来た人間でもないし、影響力がある訳でもない。それほどたくさんの思い出を共有してはないし、責任をもって何かを教えた弟子でもない。ただの通りすがりの一村人なんだ。
「ソラヤ、人生ってのは良い時も悪い時も必ずある。俺たちの事を思って幸せになろうとか、立派になろうとか考えるな。誰かの言う立派にならなくても不幸せでも俺は構わない。俺はソラヤのことなんてすぐに忘れるから」
「どうしてそんなことを言うんですか!忘れるなんて言わないで」
ソラヤは家中に響くような大きい声で俺に文句を付けた。思えば、初めてここへ来たときは声も小さくて、何を言っているのか聞き取るのがやっとだった。
「忘れたいに決まってるだろう?出会った時、散々殴られたからな」
「それは……」
「あの痛みは一生忘れられないからな」
「どっちなんですか」
俺が可笑しなこと言うから、半泣きにさせてしまった。せっかくの旅立ちの日だっていうのに悪いことをしてしまった。
「でも、正直に言えばどっちも本心だ。人間の心って言うのはハッキリしないもんなんだよ」
「私だって、行きたいけど行きたくないんです」
「それでも行くんだろう?」
「はい」
心の中でどんな葛藤があるかは分からないが、その決意は固いようだった。それでいいと俺は小さく頷いた。
「村の入り口まで見送ってくれますか?」
「行かない。ここまでだ」
「……では、大変お世話になりました。短い間でしたが、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「私、私を拾ってくれたのがおじさんで幸運でした。やっぱりこのランタンのお蔭かもしれませんね」
「ああ、絶対にそれは手放すな」
ソラヤは目に一杯の涙を溜めて、零れないように瞬きするのを堪えているように見えた。
「おじさん、いってきます」
「さようなら、と言え」
「いいえ、言いません。いってきます」
店の扉が少し開かれ、眩しい光が俺の目を眩ませる。ソラヤは俺を見つめ続け、後ずさりしながら扉を押し開けていく。そして無理矢理に笑顔を作ると、踵を返して飛び出して行った。
扉がゆっくりと元の場所へと戻り、眩しい光もだんだん細くなって、閉まる音と共に光もぷつんと途切れた。
俺は「いってらっしゃい」とは言えなかった。これから彼女は自分の生きていく場所を見つけなければならない。それはここにはないのだから、帰れる場所になってはいけないんだ。
ソラヤの足枷にだけはなりたくない。彼女が何か決断する時、迷う時に俺の顔が浮かんではいけないんだ。どんな時でも彼女は自由であり続けなければならないのだから。
「~~」
俺はルシオラだ。こういう時も何故か歌ってしまうらしい。
がらんと広くなった家に彼女たちが残していったものは何一つなかった。もうヴィオの叫ぶ声も、ラトの足音も、ソラヤの下手な歌も聞こえない。俺はソラヤが来る前の生活に戻り、そしてまたメリハリのない淡々とした日常を送る。彼女たちが戻ってくる事を期待したり待ったりはしない。きっと……。
ソラヤとキュフはその日、ルシオラの村を出発した。彼女たちを村の入り口で見送ったのは拍子様だけだったらしい。
いつものように俺は花煙草を紙で包もうと作業台に座った。ソラヤが巻いた不格好な煙草に火をつけて、包み紙を入れた箱を開ける。
「!」
包み紙の一枚目には「いつか必ずお返しします」と書かれている。
「ソラヤ、一体何に使うつもりなんだ?」
百枚ほど用意していた家紋入りの包み紙が一枚だけしか入っていなくて、俺は少し笑った。
黒い雪が降り始めて、空から夏鳥の群れがボトボト落ちてきた。鳥の落下に驚いたルシオラが歌を途中でやめて、足を止めた。
僕は魂を連れた男にどうしてルシオラは歌うのかと尋ねる。
「死んだ奴っていうのは自分が死んだことにはっきり気づいていないもんらしい。だから教えてやるんだ。大昔は延々と話しかけ続けたらしいが、俺たちが一番思いを伝えられるのは歌だって気づいて、それから歌ってるんだとさ」
ルシオラの周りには黒い雪をも溶かす眩しい魂たちが集まっていて、ふわふわと漂っている姿はどこか楽しげに見えた。
歌が上手い方が優秀なのか、と問うと男は少し笑ってこう答えた。
「いいや違うね。一番信じられる奴かどうかだ」
黒雪は深々と降り積もっていく。いつしか荒野は黒い雪原へと塗り替えられた。僕は鳥を土に埋めながら、ルシオラの歌が聞こえなくなるまで耳を澄ましていた。
エアルの手記より。