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05
夏の終わりを報せる蝉が鳴きはじめ、風向きも変わったころ、家の店に男が二人やって来た。そのうちの一人はよく知る男で、俺を見つけると「お兄さん」と呼びかける。もう一人は、年若く育ちの良さそうなお坊ちゃん風で、その面影に見覚えがあった。
「お兄さん、ご無沙汰しています」
「兄と呼ぶな。血縁関係はない」
「またまた、久しぶりに会えたんだから、冷たくしないでください」
この馴れ馴れしい男はウミスズメ商団のクレイオという。
「戦があったって聞いたので、物資が不足しているだろうと踏んで飛んで来たんです」
「それはどうも。それで、その隣のお坊ちゃんは何しに来た?」
クレイオは薄茶色の巻き毛を揺らして、不思議そうな顔を浮かべる。
「どうして誰だって聞かないんですか?」
「もしかして、兄を、ディアン・アルスメールを知っているのか?」
やはりこの男はディアンの弟だった。それにしてもそっくりすぎる。百人に聞いても百人とも分かるくらい似ている。
「少し顔を合わせたことがあるくらいだ。その弟君がどうしてこんな田舎の煙草屋に?兵士を迎えに来たのなら病院へ行けばいい」
俺は引き出しから紙と鉛筆を出して、クレイオから買いたい必要品を書き始める。
「ヴィオリーナ・ハンゼアートがここにいると聞いて来た。彼女に会わせてもらいたい」
弟は誠実そうな兄とは違って、絵に描いた貴族といった雰囲気を放っており、俺のような田舎者にはどこか偉そうだ。
「ヴィオなら、人探し中だ。夕方には戻ってくると思うが……。クレイオ、悪いがこれを用意してくれないか?」
クレイオに欲しいものを書いた紙を渡すと、彼はその内容に目を丸くさせた。
「なんだその顔は」
「いいえ、別に何も。もちろん、すぐにご用意いたします」
すぐに持ってくると言って、商人は楽し気に店を出て行ってしまう。
「おい、何でお坊ちゃんは一緒に行かないんだ?」
「お坊ちゃんと呼ぶな。僕はハイン・アルスメールだ。ここで待たせてもらう」
ハインと名乗った弟は店の勘定台前に置いた木の椅子に勝手に腰掛け、目をつぶって瞑想しながらヴィオの帰りを待つようだ。俺は、一つ溜息をついて、茶でも淹れてやろうと思い、湯を沸かすことにした。
勘定台に旅疲れを癒すといわれている、夜草茶を淹れて出してやると、ハインは「すまない」と言って熱々のお茶に口を付けた。
「不味い」
「夜草茶って言って、疲労回復効果があるんだ。薬だと思って飲め」
眉間に深い皺を作り少し躊躇いながらも、ハインはゆっくりお茶を口に運ぶ。
「道中、クレイオから聞いた。あんた、クレイオの姉の夫なんだって」
「あいつはどういう説明をしたんだ。あいつの姉とは結婚してねえよ」
「そうなのか。クレイオはあんたと家族だと言っていた。姉と一緒になってくれた人だと」
本当にどういう話をこの世間知らずそうなお坊ちゃんに聞かせたのやら。あいつの事だから劇的にしようと脚色しすぎたに違いない。
「ミネットとは一緒になろうと約束はしたが、その約束が果たされる前に事故で帰らぬ人になった」
「その話は聞いた。この村の近くで起きた土砂崩れに巻き込まれて亡くなって、そしてあんたに魂を切ってもらったんだと聞いた」
「それであってるよ」
どうしてこんな見ず知らずの若造に一番聞かれたくない思い出を語っているんだろうか。
「クレイオは言っていた。最後まで姉が息を吹き返すと信じてくれたのがあんたで、姉は、魂をあんたに切ってもらって果報者だったとも言っていた。それに今でも姉のことを忘れないでいてくれて、僕たちのことすら気にかけてくれていると嬉しそうに話していた」
「それは、言い過ぎだ」
ただ俺は独り残されるのを怖がって、しぶとく現実逃避をしたに過ぎないし、魂もクレイオ達に望まれたからそうしたまでで、あの時の俺に明確な意思は殆ど無かった。ずっと夢から覚めたくないと駄々をこねていただけ。
「どうしてそこまで真摯に向き合えるんだ?」
「なんだ、好いた女でもいるのか?」
年頃だろうから、そういう話の一つや二つで悩むこともあるだろう。
「そうではない。兄の事を思っただけだ。どうすれば、あんたのように逝ってしまった人にも残された人たちにも感謝されるのかって」
ああ、そうだ。思い出すのが遅すぎてしまった。ハインはディアンの弟だということを。
「俺は両親も兄弟もいない一人暮らしで、最近はちょっと違うがそれは置いておいて。家族と言うか気にかかるのは昔の事とクレイオたちの事ぐらいだってことだ。それで感謝してくれるんなら、いつまででも日常に思い出すくらいする。こっちもそれで少しは寂しさが和らぐ気がするからな」
ハインは湯飲みの中をじっと見つめながら、「そうか」と静かに答えた。
夜草茶が飲み干されたころ、賑やかに家の同居人たちが帰ってきた。ヴィオは店の中にハインがいる事を確認すると、その場に力なく座り込み、両手で口元を覆った。
「ディアン様……」
「ハインだ。兄ではなくて悪いな、ヴィオ」
「ディアン様は?」
「……陛下に例外は無い」
そこ言葉を聞いて、ヴィオは目を真っ赤に充血させて大粒の涙をボロボロ溢れ出し、床に蹲って咽び泣くのだった。
ソラヤもラトもどうしたらいいか分からず、ただ黙って彼女の涙が止まるのを待つしかなかった。
ハインは淡々と伝える。
「我が兄、ディアン・アルスメールは敗戦の責を負い陛下の名の元、斬首刑を言い渡された。これは速やかに執行され、その首は二十日間晒される。晒されるはずだったが、キアノ殿下がすぐに取り下げられ、遺体はアルスメール領に還された。許してくれ、ヴィオ。殿下と力を尽くしたのだが、私の力が及ばずこのような事になってしまって。魔法でも使えればどうにかできたかもしれないが、本当に何もできず、許してくれ……」
ハインは淡々と語りながらも瞬きするたびに涙を一粒ずつ落とし続けた。
「キアノ殿下より、ヴィオリーナ・ハンゼアートに帰国命令が出ている。負傷兵と共に帰国し殿下に事の顛末をお伝えせよ」
「ハイン様、でもキュフがまだ見つかっていません」
「殿下は先に状況を確認したいそうだ。私と一緒に帰ってくれ」
「……分かりました」
ヴィオは未だ止まっていない涙を拭いながらフラフラと立ち上がると、部屋の方へ進んでいき自分の私物をまとめ始めた。
「ヴィオさん、もう行っちゃうんですか?」
ソラヤがヴィオの服の裾を引っ張って、名残惜しそうに声を掛ける。
「はい。キアノ殿下という私たちが信頼している王子様に呼ばれていますので、私は騎士としていかねばなりません。負傷兵たちに身支度をさせてるのを急かさなくてわ」
ヴィオはキアノという名の王子の話を俺たちにしたことがなかったように思う。そんな名前の王子がいる事すら初耳で、どんな人間で何歳かも知らないが、彼女たちにとって特別な存在であることは知れた。
ヴィオはあらかた荷物をまとめると、ソラヤをぎゅっと抱きしめて涙声で別れの挨拶をする。
「ソラヤ、私、妹が出来たみたいで楽しかった。ありがとう。もうランタンを忘れてはいけませんからね」
次にラトの元へと駆け寄り、ラトの細い両肩に手を置いてしっかり目を見る。
「ラト、しっかりご飯を食べなくてはいけません。強い大人になって、また会いましょう」
そして赤い目のまま、俺に向かって深々と頭を上げた。
「短い間でしたが大変お世話になりました。私はトキトさんの歌が世界で一番好きです。もっと歌ってください」
そしてヴィオは高く結った髪に王家の文様が入った髪飾りを結び、この家を風のように出て行ってしまった。彼女は気丈に「見送りは結構です」と断ったが、ハインが「出立は明日の朝なので、それまでにヴィオの気を治めておくから、見送りに来てあげてくれ」と言い残してヴィオの後を追いかけていった。
残されたソラヤとラトと俺は、突然の別離に戸惑ってしまい言葉すら見失ってしまった。
夜にクレイオが注文していた品を持って家にやって来た。ウミスズメ商団はケルウスで買い付けた商品を船に乗せ、南の国マラキアの岬まで運ぶ。そして岬から荷馬車に乗り換えてマラキアやここカヌス辺りに商品を売り買いしながら旅をしているのだ。
「いや~、注文書の中に女性用の服がと子供用の服が書かれてあったので驚きました。こういう事だったんですね」
ラトとソラヤに服を試着させるのだが、二人ともヴィオが出ていったので不機嫌で、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「それから、瓶などの調剤用具はこの箱に入っています」
山賊に荒らされたせいで、出費がかさんでしまう。あいつらに弁償してもらいたい気分だ。
「クレイオ、助かるよ。金額も勉強してくれたら尚、いいんだが」
「お兄さんにはいつだって、破格の値段で提供しているんですよ。家族割引価格ですからよそに言わないでください」
家族割引価格の割には請求書の金額が今までにないほど高い気がするんだが。
「ソラヤさん、よくお似合いです。その服はケルウスで今流行っている形なんです」
流石は行商人。煽てるのが上手だ。しかしいくら上手に煽てようが、今日ばかりはまったく効果がない。
「お兄さん、この子達に何かあったんですか?」
「ハインが、この子らが姉と慕う女を連れて行ったんだ」
「へえ、あのお坊ちゃん、なかなかやりますね」
「突然出ていったもんだから、こんな感じだ」
二人とも一言も喋らず、何かを考えているのか、ずっと下を向いてじっとしている。
「クレイオ、ハインたちがいつ頃帰る予定か聞いているか?」
「明日の夜明け前に出発すると言っていました。早く船に乗らないと、海流が厳しくなって危険ですからね」
「そうなのか」
「マラキア沖の海流は荒れやすく、季節の変わり目にだけその荒々しさが少し収まるんですよ。秋が始める前に帰るのが得策でしょう」
商人の話で少しこちらを向いた二人だったが、再び俯いてしまい、せっかくの新品の服もあまり良く見えなかった。
店先までクレイオを見送ろうと外に出ると、パラパラと雨が降り始めていた。傘を貸してやろうかと尋ねたが、両手が鞄で埋まっているので濡れて帰ると断られた。
「それより、お兄さん。このままここで三人暮らしをするつもりですか?」
「どういう意味だ?」
「あの子たちはルシオラではないと聞きました。ルシオラ以外の人間が村に住むのを嫌う人が多くいるでしょう?姉の時もそうでしたし、あの子たちには姉が受けた仕打ちを体験させたくないじゃないですか」
昔、俺とミネットがこの家で一緒に住むのではないかという噂が広まり、保守的なルシオラ達は露骨に嫌がった。拍子様に直談判する者や俺に文句を言うヤツだっていた。特にミネットには罵声を浴びせたり、村に出入りするなと無理やりに追い出したこともある。他にも俺が知らないところで酷い嫌がらせを受けていたのかもしれない。
「ルシオラという生き物は、自分と違う生き物を受け入れるのが下手なんだ。お前にも辛い思いをーー」
「おっと、謝らないでください。お兄さんのせいではないですから。もしよろしければ、僕が引き取りましょうか」
「え?」
「行商人として生きる事にはなりますが、度々この村には来られますし、お兄さんにも会えます。または、知り合いの商人や子どもを欲しがっている金持ちに紹介もできますよ。もちろん信頼できる筋にです」
「あの年で引き取ってくれる人は少ないだろう」
ラトは十三歳で、ソラヤは十八、九歳といったところだ。今は戦の後で五月蝿い連中も気に留めていないようだが、負傷兵が帰ればソラヤとラトは目立ってしまうに違いない。そうなると追い出そうと躍起になる人が続出するだろう。
「クレイオは明日一緒に村を発つのか?」
「いいえ、僕は当分ここでお世話になりますよ」
「そうか。じゃあ、明日おやっさんに挨拶に行くって伝えてくれ」
「父は昨年亡くなりました。あ、そんな顔をしないで。持病を悪化させてのことだったので寿命だったんです」
ここ数年ウミスズメ商団はこの村にやってきていなかった。何かあっただろうなとは思っていたが、まさか団長であるおやっさんが亡くなっていたとは思いもよらなかった。大らかて、威勢のいい良い人だった。
「これからは父に代わり僕がばんばん稼ぎますからね。では、さっきの話考えておいてください」
「ああ、気をつけて帰れよ」
小雨が降る中、小さくなっていくクレイオの背中を眺めながら、その背中によく似ている懐かしい人たちの事を思い出した。彼は彼の父にも彼の姉にも似ている。似ていてくれて本当に良かったと改めて思った。
次の日の早朝。明け方まで雨が降り続いて路面は水たまりが所々に出来ていた。雨は止んだが、雲は低く灰色で今にも再び振り出しそうな空模様だ。
村の入り口に小型の馬車が三台止めてあり、足の悪い負傷兵が仲間に支えられながら次々に乗り込んでいく。真っ先に腕を貸しているのがもちろんヴィオだった。俺たちが見送りに来ても気づかないフリをしているのか、わざと忙しくしているように見えた。
ハインが拍子様に挨拶をして先頭の馬車に乗り込むと、一台ずつゆっくり馬が走り始める。ヴィオが一番後ろの馬車に乗り込もうとした時、ラトが俺の隣を離れて駆けだしていく。その後を追うようにソラヤも一緒になって駆け寄る。
「ヴィオさん!私、ヴィオさんの代わりに美少年を探すからね。見つけたらヴィオさんの所に連れて行くから」
「ソラヤ、ありがとう」
ヴィオが乗り込むのを待つように、最後尾の馬車は発車できずに置いて行かれる格好になっている。
「ヴィオさん、あの」
「ラトも見送りに来てくれてありがとう」
「ぼ、僕も一緒に連れて行ってください!」
驚いたのはヴィオだけではない。ソラヤも拍子様も俺だって驚愕している。
「僕もヴィオさんのように強い大人になりたいんです。騎士にはなれなくても、近づけるようになりたい。そしてトキトさんのように人を助けられる人になりたいんです」
俺みたいに?俺は何も大した事をした訳ではない。昔の女を忘れられない女々しくて、子どもっぽいしょうもない男なんだ。
「トキトさん、僕、ヴィオさんと一緒に行ってもいいですか?」
真っすぐに澄んだ瞳で見つめられたら、ダメだと言えるはずがないだろう。
「そもそもなんで俺の許可がいるんだ?ラトの気持ちも聞かず、グッタでの仕事を台無しにしてこの村に勝手に引っ張ってきたのは俺だ。こんな勝手た男に許可を取ることなんてねえんだよ」
「僕はトキトさんに救って貰ったと思っています。そうでなければ今頃、水樽の下敷きになって死んでました」
俺が助けなくてもきっと誰かが助けてくれたり、または自分で道を切り開いたりすることが出来ただろう。ただ俺がその役目をやらせてもらったに過ぎないんだ。
「自分の人生は、自分で決められるもんだ。自分で決められないような場所で生きるのだけはやめろ。今、ラトは自分の生き方を決められる。そうだろ?」
俺はなりたい職業もなかったし、将来の目標すら抱かなかったらなんとなく家業を継いだ。この人とは一緒に生きていこうと強く思ったがそれも叶わず、だらだらと独りで歌も歌わずに怠慢に生きていた。
「トキトさんの許可が出たのならば、私には断る理由がありません。一緒に行きましょう、ラト」
「はい。では、行ってきます。ソラヤちゃん、また会おうね」
ソラヤがランタンを足元に置き大きく手を振って、二人が馬車に乗り込むのを見守る。
こんな情けない大人とは違って、俺が拾ってきた二人の少年少女は立派に自分の進む道を妥協せずに選んでいるようだ。
「ラト君、ヴィオさん、お元気でー!」
昨日の暗い顔はどこへやらで、みんな清々しく微笑んでこの別離を受け入れることが出来たのだった。
俺たちは馬車が蟻の大きさになるまで見送った。馬車の車輪の音が聞こえなくなるまで、耳を澄ました。
「お兄さん、大変です!」
「クレイオ、何時だと思ってるんだ?」
それから数日後、未だにクレイオは村に残っている。ウミスズメ商団員の半分以上は各地へ買い付けと販売へ出発し、数か月後にこの村で待ち合わせをしてケルウスに帰るという。つまりクレイオは数か月間村に滞在するらしい。
「ソラヤさんも急いで!二人とも早く」
俺とソラヤを叩き起こしに来たのが、日が登るにはまだ早い時間帯で、戸締りをしっかりして就寝したはずなのに、侵入者がいるのは何故だ。
「どうやって家に入ってきた」
「どうやってって、鍵を開けてきたに決まってるじゃないですか。それよりも急いでください」
知らない間に合鍵を作られているとは気づかなかった。これは犯罪ではないのか?
「クレイオさん、もしかしてですか?」
「その通り、病院に急いでください」
クレイオは珍しく慌てふためいていて、余計な動作が多いせいで家中の家具にぶつかって棚に乗せていた物を次々に落下させていく。山賊のようにまた家を荒らされるのはごめんだと思い、クレイオに急かされて寝間着のまま、俺たちは病院へと急いだのだった。
「早くしないと生まれてしまいます。誕生の瞬間に出会えなかったら、お兄さんを恨みますからね」
クレイオは数か月この村に滞在する理由とは、それは新婚の嫁が臨月だからだ。
「嫁が産気づいて、どうして俺たちを呼びに来るんだ?」
病院に着いて待合室で赤子の初泣きを待つ間、ソラヤは壁に頭をぶつけたままランタンを抱いて眠ってしまった。クレイオは病室の前を右に左にと行ったり来たりするだけで、たいして何かの役に立つようなことはしていない。
「だって貴重な、家族が増える瞬間ですよ」
「俺たちには生まれてからの報告で良かったんだぞ」
「そんな連れないこと言わないでくださいよ、お兄さん」
クレイオの父が危篤になる前に急いで結婚したらしい。彼の妻は少し変わった人で、身重であるにも拘らず、仕事を手伝うと言って船に乗り込み、臨月を迎えても家族がカヌスの村にいると知ってそこで産むと決めた。因みにカヌスに住む家族というのは俺の事だ。
商売人の妻としては鑑のような人であるとは思うが、少し危機感という感覚が薄いのかもしれない。あの妻に「不安」という言葉は存在しないのだろうか。
俺が小さなため息を吐いた時、病室から元気な甲高い赤子の泣き声が響き渡った。ソラヤも泣き声に驚いたように飛び起き、看護師が病室の扉を開けると同時に、三人で争うように赤子の顔を見ようと、跳び急いだ。
「ああ、かわいい。おめでとうございます」
ソラヤは生まれたてのくしゃくしゃの赤子を見て可愛いとお世辞を言い、疲れ切っているクレイオとその妻にお祝いの言葉を述べた。
「それで、どっちだったんだ?」
「女の子ですって。ソラヤさん、お兄さん、わざわざ駆けつけてくださってありがとうございます」
妻まで俺を兄だと呼ぶから本当に困ったものだ。
「そうだ、名前はミネットにしよう」
「クレイオ、それだけはやめておけ」
「姉に肖ってはいけないんですか?」
「色々とややこしくなるからだ」
生まれたばかりの娘に生涯、自分と同姓同名の墓参りをさせるつもりだろうか。そればかりは俺が許さない。
「なら、お兄さんに名前を使てもらいましょう。名付け親になっていただいたなら、より一層絆が深まりますし」
妻の発案にクレイオは大いに賛同し、俺が承諾してもいないのに勝手に名付けという大役を与えられてしまった。そもそも何かに名前を付けたことなんて一度もないのに、どうすればいいんだ。
産婆が「赤ん坊が泣いてよかったね。」と喜んでいる隣でこの病院の医者をしている幼馴染が俺たちに歌を歌えとせっつく。あいつは事あるごとに俺に歌えと言ってくるが、嫌がらせのつもりなんだろうか。
ソラヤがヴィオから習った鎮める歌を歌い始めた。ケルウスでは誕生日に歌われるというこの歌は、大昔にランテルナがランタンを授ける際に歌っていたといわれている。そのせいもあってあらゆる種族が知ることとなった数少ない曲だろう。
「だから、そこはアーではなくてラーだ」
「もう、文句を言うんだったら、おじさんが歌えばいいじゃないですか!」
何回歌っても、誰が教えてもソラヤの歌はちっとも上手にはならない。俺は仕方なしに一緒に歌ってやることにした。一緒に歌っていると釣られてこっちまで音程を外してしまいそうになるが、なんとか堪えて歌っていると、ソラヤがピタッと歌うのをやめた。そして日が昇り始めた窓の外を見つめて、徐に立ち上がると、何かを思いたちすぐさま病室を飛び出してしまった。
「おい、どこへ行く」
「待って、行かないで」
俺は後を追いかけようとしたが、ソラヤが病室の窓の前を通り過ぎていくので、窓を開けることにした。
「ソラヤ!」
「あなた、キュフでしょう!」
キュフ。それはヴィオが探しているというはぐれた美少年の名前だった。
薄明りの通りに一人の少年の姿がぼんやり見える。なぜか輪郭がぼやけていてはっきりせず、気のせいか少し体が透けて見えるようだ。
少年がソラヤに呼ばれてこちらを振り向く。蝶型の耳飾りが揺れて、聞こえないはずなのに金属が軽くぶつかるような音が耳に届いた。
「やっと見つけた。ヴィオさんよりも背が低くて暗い茶色の髪に蝶の耳飾りを付けた、美少年。間違いない、あなたがキュフなんでしょう?」
ソラヤの言うように、ヴィオが語った容姿に酷似するところもある。蝶の耳飾りをなど、身につけている男は少ないはずだ。
「君は誰?」
「私はソラヤ。ずっと貴方を探していたの」
俺は普通の村人だ。どんな吟遊詩人の歌の中にも登場しない、物語の主人公になれない男だ。しかしこの二人の出会いは、おそらく旋律が付けられて、歌い継がれるようなそんな物語の始まりに思える。例えばこんな感じに……。
昔々ある所に、ランタンを持った少女がいました。少女は昔の記憶が少ししかありません。
少女は生まれたばかりの子どもに祝福の歌を歌います。その歌を聴いて蝶の耳飾りを付けた少年が現れました。その少年は少女がずっと探していた人でした。少女は少年の名を呼んでこう言います。「ずっとあなたを探していたの。」と。そして少年はこう答えました。
「君が僕を知っているなら、教えて。僕が誰なのか教えて。」と。
自分が誰か分からない者同士が出会い、自分を探す物語が始まるのです。
きっと弦を張った楽器がつま弾かれるだろう。優美な旋律が聴衆の胸を騒がせるだろう。
ソラヤが振り向いて窓から体を乗り出している俺を見つける。
「おじさん……」
困ったその表情は、まるで絵画の一枚を見ているようで、俺は疎外感を覚えたのだった。
ソラヤがキュフを連れてケルウスに向かうという。ヴィオとの「見つけたら連れて行く」という約束を守りたいようだった。
しかし一つ大きな問題があり、直接ケルウスへ行くことは出来なくなった。それはキュフが透けている事だ。触ることもできず、不思議と体の向こう側がぼんやり見えるのっだった。
「キュフは死んでるの?」
拍子様の家に魂関連に詳しいプルモが来ているというのでソラヤとキュフと俺で尋ねた。キュフの姿を見るや否や、拍子様は目を見開いて驚いた。プルモの二人は驚きのあまり物陰に素早く身を隠した。
「死んでいるなら魂だけになっているはずだしね、こんな透けた人間を見たのは初めてだ」
拍子様の言う通り、死んでいれば発光する雫状の物体になっているはずで、人型のまま喋るなどありえない。
「あんなの知らない。コワイ、ちかよるな!」
プルモというのは小柄な種族で、大人でも人間でいう所の十代くらいの身長しかない。各地を回って魂を集めているのは子ども達らしく、もっと小さくて年齢の判断がつかない。ちなみに性別も見分けられないくらい、中性的である。
「こんな変なものははじめてみた。わたしたちはわからない」
双子のようにそっくりな二人のプルモは拍子様が座る椅子の後ろに隠れて、睨みつけるように透けた人間を観察する。
「ソラヤの言う、ユウレイってやつじゃねえのか?」
俺はソラヤ前に魂を呼び出す前に遺体から声が聞こえると言っていた事を思い出した。
「幽霊はこんなはっきりした形をしていません。霧のような感じで声だけが聞こえるんです。って、おじさん前にも説明しましたよ」
「年をとると何度も同じ話を聞きたくなるもんなんだ」
キュフがこうして椅子に座ってこっちを見ていると、不思議な感覚がする。目も合わせられるし、声も聞こえるのに、透けてみるという不思議。
「そういえば古い文献に体から魂を切り離すという方法があると読んだことがあったね」
「どうせ、魔法があった時代の話だろう?」
数百年前、人々は当たり前のように魔法と呼ばれるなんでもできる技を持っていたらしい。あの時代に残された文献は突拍子もないことばかりで何の役にも立たない。
「おじさん、魔法って何?」
「最近の若い奴は知らないのか。魔法って言うのはどんなことも可能にしてしまう技や力の事を言うんだ。例えば、空を飛んだり突然火を熾したり、雨を降らせたり、何でもありだ」
「どうして今は無いの?」
「ある人間が、人類から魔法を奪ったんだ」
詳しくは知らないし、数百年も昔のおとぎ話のような物で現実味もない。
「魔法を奪ったっていう人は誰?」
「エアルっていう普通の男だったらしい。それより、ババア。魂を体から離すっていうのはどういう意味だ?」
「ケルウスの文化の一つで、戦勝祈願に一人の魂を体から離し、魂だけを連れて戦へ赴くというものだ。どうしてそんなことをするかは知らないが、もしかしたら今でもその風習が残ってるのかもしれないね」
今回の戦にもその戦勝祈願としてその風習が行われたのだとしたら、キュフは生きた体から切り離された魂という事になる。
「おばあさん。キュフを元に戻すにはどうしたらいいんですか?」
ソラヤは少し泣きそうな表情で質問する。キュフを可哀そうに思うところもあれば、話に知らないことが多すぎて混乱している表情にも見受けられた。
「すぐに体に戻したほうがいいに決まっているが、クレイオが言うには春までケルウス行の船は無いらしい」
この村からケルウスへ行く方法はマラキア沖を船で渡るよりほかに方法がない。しかし今の季節は海流や風向きが悪く、次に船がケルウスに辿り着くには春まで待たなくてはいけないらしい。
「春まで待つしかないんですか?」
「おそらく、春までにはキュフの魂は自然に還ってしまうだろうね」
肉体を持たない魂は時の流れと共に自然へと還っていくのが当たり前だ。放っておけばちゃんと自然へと還っていく魂を、わざわざ体から切り離してプルモに受け渡すことに何の意味があるのだろうと、何度も考えたことがあった。しかしいくら考えても何の答えも出ないままだ。
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」
とうとうソラヤが涙をこぼし始めた。その涙をみてキュフまで動揺してオロオロしている。プルモ達も涙を見て、駆け寄って慰めようと体をさすり始める。
「グッタへ行ってみるかい?ケルウスに次ぐ大きな国だ。何か方法が見つかるかもしれない。それか、マラキアでマガを一か八か尋ねてみるかのどちらかになるだろうね」
マガとはマラキアと言う国の国主のことで、一般人がホイホイ会えるようなそんな人ではないと聞く。
「そうだな。こんな田舎でじっとしているよりはマシだろうな」
俺がそう言うと、ソラヤは赤い目でこっちを向いて何かを言いたげな表情を浮かべている。
「おじさん」
「俺は子どもの名前を考えなきゃならねえんだ。忙しいんだから、自分で決めろ」
選択を迫らせそうな気がして、咄嗟にその場を逃げ出してしまった。いい大人が情けないが、俺はソラヤの人生に影響を与えたくないと思った。
拍子様の家を飛び出した俺を追いかけてきたのは、意外にもキュフだった。
「トキトさん。待ってください」
まただ。なぜか耳に響いてくる。キュフの両耳に飾られた真鍮で出来ているような蝶の飾りが金属にぶつかる高音が。
「僕はトキトさんの歌に誘われてここへ来たんです」
「それで?」
「ずっと誰かを探しているような気持ちでなんとなく彷徨っていました。そうしたら、聞き覚えのある歌が聞こえてきたんです」
雲間から射す太陽の光が目の前の少年の体を照らすと、光が屈折することなく真っすぐ地面を突き刺して、影すらも作らない。
「あの歌は何という歌ですか?」
最近、こういう質問多い気がする。
「鎮める歌だ。鎮魂歌とも言う」
「子どもが生まれた時に歌う歌なんですか?」
「そうらしい。他にも怪我をしたときや病気になった時にも歌われる。魂よ抜け出るなっていう意味の込められた歌だ」
「なら僕は誰かに死んでほしくなかったのでしょうか。生きて会いたい人がいるかもしれません」
キュフの濃い茶色の髪が風に揺らされる。光は透けるのに、風は彼を捉えられるらしい。
「ソラヤが僕を見つけてくれました。このまま消えてなくなる前に自分が何者か知りたいんです」
「俺はダメだとは言ってない」
本当は……。
「ソラヤを頼っても構いませんか?」
「俺は行くなとは言ってない」
キュフにとってソラヤに出会ったことで自分の名前を知ることが出来たなら、ここが大きな分岐点となるかもしれない。本来の自分を取り戻せる好機を逃したいはずがない。
「トキトさん、ソラヤと一緒にここを出てもいいですか?」
「俺はあいつの親でも何でもない。自分たちで決めればいいんだ。俺への確認何ていらねえんだよ」
キュフを残して家への道を進む。早朝に叩き起こされたので、もう一度寝なおそうと思った。
ソラヤは血を分けた娘ではないし、長い年月を共に過ごしたわけではない。でも娘がもし、もし居たとして、きっと嫁に出す時というのはこんな気持ちなんだろうと思った。よその男に連れて行かれる気持ちは、いくら言葉で平静を装っていてもダメなようだ。
「たぶん、顔に出てたんだろうな」
本当は行くな、もうしばらくここに居てくれと、そう思っているという事が顔に出ていたんだと思う。