2
.02
店とは反対側にある裏手の勝手口前に腰を下ろして、花煙草に火をつける。気づけば昼前で、太陽は頭上高くまで登っていて、上から刺すような日差しが照り付けてくる。じんわり汗をかきながら紫煙を吹いていると、珍しい客が目の前に現れた。
「ババア、うちの前を通るなんて珍しいな」
「お前が、ちゃんとあの光の持ち主を保護したかどうか確かめに来たのさ」
「ご命令通り、ちゃあんと保護しましたよ」
そうかいと言って、拍子様は手にしていた袋を俺に差し出した。それは捌いたばかりの鶏肉のようだった。
「その人に食わしてやんな。それで、名前は?」
「そう言えば、聞きそびれてたな。後で聞いとくよ。一晩中歩き回ったらしく、泥のように寝てるから」
「聞かなくても書いてるだろう?ランタンに」
「そういうもんなのか」
ランタンなど貰ったこともなければ、持っている人すら見たことがないので、そのランタンに名前が記されていることすら知らなかった。
煙草を床に擦って灯を消す。濃い薬草の匂いが眩しい日差しに溶けて消えていく。
「どんな人なんだい?」
「まだ十代位の餓鬼で、蚊が鳴くようにぼそぼそ喋るし、手足なんか横笛みたいに細いし、肌も紙みたいに白い。どうしたらあんなにひ弱に育つのかね」
俺は貰った鳥を持って立ち上がる。早めに調理しないと傷んでしまうし、早々に目の前の老婆との会話を切り上げたい。
「お前、くれぐれも変な気を起こすんじゃないよ。客人だと思って丁重に接するんだ、いいね」
「ちょっと待て。俺がいつ、女だって言った?」
「お前は女の前で煙草は吸わない男だ。あの子の時もそうだったからね」
腰の曲がった老婆はゆっくり足を動かし、来た道をのろのろと戻っていく。
「そんなどうでもいいことをすぐに忘れればいいのに。だから嫌なんだ」
自分を生まれた時から知っている、という人物は本当に苦手だ。こっちはそれなりに大人になったつもりでいるのに、相手はずっと子ども扱いで、しかも昔のことすら今でもそうなのだと思い込んでいるから、尚更嫌気がさしてしまう。この人の前ではいつまでたっても青臭い餓鬼に戻らされるようだ。
「ソラヤ、ソラヤ。おい、起きろ」
部屋の隅で蹲って動かなくなった少女は、あれから長時間眠り続けてとうとう日が沈んで夜になっていた。
今晩は焼き鳥なので、一人で食べるわけにもいかず、起こすことにしたのだ。
「ソラヤ、いい加減に起きろ」
揺り動かすとようやく少女は目を開けて、体を起こした。
「ソラヤ?」
「それがあんたの名前なんだろう?ランタンに書いてあったが……。もしかして違うのか?」
拍子様に言われた通り、光を治めているランタンの下部にソラヤと女性の名前が記されていた。
「あ、うん。そうかも」
「変な返事だな。とにかく、晩御飯を食え。寝てる間、ずっと腹が鳴ってた」
「嘘!」
食事もとらずに眠り続ければ胃袋も鳴くだろうさ。とりあえず、食卓に案内しソラヤの前に一杯の水を用意した。
「……おじさん、どうして優しくしてくれるんですか?やっぱり下心あるからですか?」
あの興奮が静まったのか、ソラヤの声は目が覚める前よりももっと小さく、口の中で籠るような声で話し始めた。
「俺なんかが優しいはずがないだろう。下心もない。勘違いだ」
「でも、見ず知らずの人間を何の目的もなく拾って、食べ物まで与えるなんて、普通じゃないです」
「普通じゃないか、違いない。ほら、冷めないうちに食え」
杯の隣に焼き立ての鳥肉と、香草を混ぜて焼いた野菜炒め、そして野菜の切れ端で出汁をとった汁物を出してやる。これでも一人暮らしが長いので、料理は得意な方だ。
「おじさんが全部作ったんですか?」
「他に誰が作ってくれるってんだ」
「家族はいないんですか?」
ソラヤは匙を手に取り、汁物の椀を左手で持ち上げて音もなく啜る。
「親は死別したし、親戚は少し離れた村で畑をやってる。それ以外に親族はいない。気楽な独身生活だ」
「恋人もいないんですか?」
ちょうど水を飲んでいる時にそんな質問を投げかけるから、危うく食卓に水を吹き散らかすところだった。
「いねぇよ。なんか文句あんのか?」
いい歳こいて連れ添う人間もいないって軽蔑したいならすればいい。とふて腐れて悪態をつくと、ソラヤは折れそうな細い首を壊れた人形のように横に振る。
「いえ、もし恋人がいるなら私がここに居ては邪魔なんじゃないかと……」
「ああ、そういうことか」
「あの、ここってお店屋さんですか?」
台所のすぐ脇には硝子窓があり、その窓から店の勘定台が見える。食事中でも来客が分かるようにと親父が設えたものだ。
「うちは煙草屋だ」
「そうなんですか。じゃあ、おじさんから匂ってくるそのアロマのような匂いは煙草だったんですね」
「あろまってなんだ?」
「えっと、薬草とか香草とかっていう意味だったと思います」
「何語だ?それ」
奇妙な言葉を喋りだすので俺が怪訝な表情をすると、ソラヤは少し困ったように話題を変えた。
「それより、その煙草って私も吸えるんですか?」
「馬鹿、花煙草ってのは高級品なんだよ。似合わないお子様が吸うもんじゃない」
「えー、興味あったのに」
「昔は薬としての効能があると信じられてたが、効能はないって証明されてからはただの金持ちの嗜好品だ」
親父がこの店を始めた頃はまだ、薬として病院や家庭でも焚かれていたが、親父が亡くなってから薬としての効能は認められないと偉い学者が発表してすっかり売り上げが落ちて、今は富豪相手に細々と商売を続けている。男の一人暮らしくらいなら食うに困らないから問題ない。
「ほら、温めなおしてやったから」
拍子様に貰った鶏肉をすぐに香草で蒸し焼きにして、昼食に出してやろうと思っていたが、ソラヤは目を覚ますことなく眠り続けた。
そしてようやく起こして晩御飯として温めなおしたのだが、やはり二度火を入れると肉類は固くなってしまって顎の細い少女には食べにくいだろうか。
「いただきます」
目の前に座ったソラヤは肉叉を右手で握って鶏肉を頬張った。
「うわ!まずっ……」
目がこぼれるほど見開いて、口に入れた食べ物が逆流しないように手で受けると、自分の鼻を抓んで涙目になりながら飲み込んだ。
「今、不味いと言ったか?」
男の一人暮らしが長いので、料理の腕には少々の自信があったのだが。
「言ってません」
「嘘をつくな。無理して食わなくていい」
「食べます。大丈夫です。ただ、初めての香りに驚いただけです。味は問題ないです」
「味は、ってどういう意味だよ」
俺が鶏肉の乗った皿を取り上げようとすると、ソラヤは必死にその皿を取られまいとしがみ付く。
「残さず食べますから、さげないで」
ソラヤは宣言通り、自分の分の食事は綺麗に平らげたが、食べなれないものを食べたせいなのか、食後腹痛を訴えて、再び居間で寝転がることになった。家には胃腸薬になる薬草も多くあったので、なんとか対処することが出来たが、本当に、人間という生き物は体が弱くて仕方ない。少しの怪我でもすぐに死ぬし、ちょっとしたことですぐに体が痛むのだ。だから人間は嫌いなのだ。
「どうしてついてくるんだよ」
薄手の掛布団を外套のように頭から被って、ソラヤは俺の後ろをひよこのように付いてくる。腕には黒の布袋に包まれた光の入ったランタン。
「家で留守番とか、怖くて無理です」
「こっちに来る方がよっぽど、危険だと思うけどな」
「おじさんと一緒の方がよっぽどマシです」
「さようですか」
深いため息をついて、俺は戦場となった壁付近の平原にまた、足を延ばしていた。
夜もすっかり更け、辺りには魂の光と、ルシオラが手にしている松明ぐらいだ。四方から鎮魂の歌がぼつぼつと鳴り響き、夜風が砂埃を巻き上げる音で掻き消す。この辺りは夜になると突風が吹きあれる。夏はとくに強く南からの湿った空気が吹き下ろされるのだ。
風のおかげで死体の腐敗臭は幾分和らいでいるが、それでも地面から昇ってくる鼻を曲げる匂いはどうしても慣れない。
「おじさんは、どうしてここにくるんですか?」
ふらふらと夜風が吹き抜ける土道を徘徊する俺と、その後ろをぴったりくっついて歩く少女。
「ただの暇つぶし」
「睡眠時間削ってまで?」
「アンタには関係ない」
少し語調を強めると、ソラヤは不機嫌そうに口を尖らせて、そっぽを向いた。
「あの、ずっと聞こえているあの歌は何なんですか?」
「あれは鎮魂の歌だ。聞いたことないのか?」
「はい。初耳です。そうですか、レクイエムだったんですね。それでリピートされてるんだ」
「え?」
まただ。この隣の少女は突然聞きなれない言葉を使ってくる。
「あ、気にしないでください。それより、おじさんは歌を歌わないんですか?」
「ああ、歌わねえよ」
「そう、なんですか。もしかして音痴とか?」
「違う」
語気を荒くしてしまい、ソラヤは返答することもせずに目線を逸らして黙った。
一人のルシオラが俺たちの前である死体の前で座り込んでいた。さっきからずっと夭逝した者へ贈られる歌を歌い続けているが、どうやら一向に出てこないらしい。
地面で眠っている死体は、王国兵で、出血多量死というよりは、頭などを打って亡くなったのだろう。大きな外傷が見られない状態の、女性騎士だった。
「上手くいかないのか?」
歌を歌っていたのは、成人になる少し前の青年で、目じりに少し疲れが伺えた。
「二日間、どんな歌を歌っても魂が出てきません」
まるですぐに目が覚めそうな女性騎士の側にソラヤが膝をついて座ると、死体なのに軽く会釈し、「こんばんわ」と挨拶した。
「歌は、故人に合った歌でなければなかなか上手くいかないもんだ。よく観察してみるしかない」
昔の人間の偉そうな格言では、死体を感動させなくてはならないという。歌とルシオラの歌声で、魂を揺り動かすのだと。そんな大仰な説明は好きではないが、実際に、生きた人間に好みの歌があるように、死んだ人間にも好みの歌というのが存在する。その歌を歌うことで、魂は苗床の体から抜け出てくるのだ。
「この人、小さな子どもがいるんですね」
ソラヤは死体の首にかかっている首飾りを覗き込んで、そんなことを呟いた。
「……そうなのか?」
ランプの灯を近づけて俺も覗き込んでみると、そこには赤ん坊の似顔絵が小さく描かれていた。昔、そんな話を耳にしたことがあった。王国の民は、家族の似顔絵を持ち歩くと。小さく絵を描く事のできる似顔絵士に絵をかかせ、首飾りなどの小さな円盤に絵を貼って肌身離さず持ち続けるのだそうだ。
「おい、母の歌を歌ってみろ」
青年に歌を歌わせる。母が幼子を残して旅立ってしまった時に歌われる母の愛情を語った歌だ。
青年が一曲歌い終わる前に、冷たい体から光るものが浮き上がってきた。やはり、ソラヤが言うように首飾りに描かれていたのは我が子だったようだ。ならばどうして、母は幼子を国に残して戦地に赴いたのだろう。
「おじさん、あの光は何ですか?蛍ですか?」
「何って、魂に決まってるだろう?」
その年にもなって頓珍漢な話をする少女だと、すこし呆れさえする。
「え、魂って、あの蛍みたいな光が人間の魂なんですか?
「当たり前だろう。俺らはルシオラなんだから」
「ええ!」
突然、びっくり仰天といった風の大声を張り上げるので、近くで歌っていた青年の口が止まった。
「深夜だから静かにしろ」
「だって、全然意味が分からない。どういう意味ですか?」
この世の中でルシオラの事を知らない人間が存在するなど、夢にも思わなかった。驚いているのはこっちの方だ。いくら箱入り娘だろうが、どこかの貴族のお嬢様だろうが、常識として知っているものだ。本当に、この少女はどこからやって来たのだろうか。
俺はため息をついて、仕方なしに自分の種族のことについて話すことにした。
「俺たちはルシオラっていう種族の人間だ。普段は薬草などを栽培したり販売しているようなやつが多いが、本業はこうして死人に鎮魂歌を歌い、その魂を切り取る仕事をする。
人が生まれるところにランテルナあり、人が死ぬところにルシオラあり。って聞いたことぐらいあるだろう?」
隣で少女が首を横に振る。冗談や嘘ではなく、本当にソラヤはルシオラの事を知らないらしかった。
「おじさん、僕、未成年なので切っていただけますか?」
青年が丁寧に頼んでくるので、俺は愚痴を言うこともせず、大人しく自前の黒いナイフで魂と体を繋ぐ無数の金糸を勢いよく切り離した。
「お、おじさん。今、何をしたんですか?」
「いちいち驚くな。ただ、魂を体から切り離しただけだ」
「切り離していいんですか?」
「切り離さなきゃ、生まれかわれねぇだろうが」
「人間って、魂を切り離す人が必要なんですか?」
「ああ、そうだ」
「放置したり、すぐに埋めたりしてはダメなんですか?」
「良くはない」
「それって、おじさんの手で完全に終わりにするみたいで怖くなったりしませんか?」
「あーもう、五月蝿い。しばらく質問禁止だ!」
まくしたてるように質問してくるので、いくら温和な俺でも面倒くさくなったりする。
「完全に終わりにするみたいで怖くないの?」と昔、同じような質問をした奴がいたことを思い出してしまった。ソラヤはバツが悪そうに口を閉じると、抱えているランタンを抱きしめながら、切り離されたばかりの魂をまじまじと観察する。そんなに見つめられれば故人も安らかになれないだろうに。俺は青年に魂を連れてすぐに村に戻るように勧め、再び俺たちは当てのない徘徊を続けることになったのだった。
夜はまだ更けたばかり。星は夏の配置で、風も夏の匂いを連れてくる。でも、辺りに静かに漂うのは腹の底がしんと冷えるような虚しい冷気と、切ない匂いだ。