ターミナルケア
「コツン……コツン……コツン……」
革靴が床を叩く。音が響き渡る部屋はむしろ静寂であった。天井は高く、煤がまわり黒々としてまるで地の底を見上げているようだ。目の前には二階へ通ずる大階段。そこら中にはガラス片が散らばっていた。そういっても見受けるのは細粉されて砂のようになったものばかりである。それらは窓枠から射す陽光を取り込み、橙黄色に煌めいている。踏むと霜の葉音のように鳴った。左を見ると食器の描かれた半月板の看板が見えた——これはおそらく食堂への扉だろう。ほんの少しだけ開いている。そこから中の様子を窺うのは難しい。僅かな間隙には闇が潜む。深淵を見ているような気概がして、私は目を逸らした。右には、錆びつき擦れて読めない文字が縦一行に書かれている看板があり、その奥の細い通路を塞いでいた。色も風化しており、セピアに滲む赤と黄は朽ちるこの館そのものを表しているようだった。その文字の輪郭、外形をしばらく見つめて、ようやく意味を読み取る。どうやらこの文字群は、関係者以外立入禁止と示されているのだった。
看板へ近付く度に腐食臭が強く香る。見れば下には水溜まりがあった。ガラスの無くなった窓から近いために、雨風が注ぎ込むらしい。滴り落ちる雫は赤く濁り、その煮凝りのような澱みは、直視するのも憚られた。視線を戻せば、細い従業員専用の通用口が見える。開口部の下のほうには朽ちて傾いた蝶番があり、その片割れが地面に落ちている。ここには建具があったらしいが、その面影はどこにもなかった。続く通用路の地面には毛布や木片が散乱し、天井に辛うじて付いている、割れた蛍光灯の中身がこちらを覗いている。仄暗く閉塞感のある通路。踏み入ろうとは微塵も考えなかった。私はポケットから、もう開閉の効かなくなったアイブローシザーズを取り出した。出来るだけ遠くに、穢れた布団を目端に入れつつ、全力で投げる。空中に一瞬だけ銀の光が見えたが、小さな衝突音を立てるとともにハサミの行方はすぐに分からなくなった。
暮色に染まる、煤けたこの部屋には、照らされて舞う埃が漂っていた。その一つ一つが自由な意思を持ったように、空中に停滞して——思いついたように動き出し、澱む空気の積み重なりが見えるようだ。私は大階段の一段目へ慎重に足をかけた。なるべく腐食の進んでいない箇所を選ぶ。ぎしりという欅の鈍い悲鳴が木霊する。その残響の終息を待って、また次の段へと足をかける。ジグザグに、左右に意識を振りながら丁寧に足を運ぶ。踏み貫けばただでは済まない。冷たい緊張感。感覚が鋭利になって意識を刺突している。私は、私の心以外の何者が死を支配することだけは忌避した。私を死に至らしめるものが私以外であるのは堪え難い苦痛であったのだ。
登り切って、息をつく。少しばかり目を閉じて、精神を落ち着くのを待つ。正常に外気を感じられるようになって、薄ら目を開けた。前方にはエレベーターの群が横に並んでいた。扉には黒黴のような鉄銹が散らばっているものの、比較的綺麗な状態で残存している。しかし、左方へ首を傾ければ、窓へ近づくにつれ苔むしている様子が見えた。時の流れが現実に表れている。一つ隣の扉へ近づく。足元には蔦が這う。扉を通り過ぎまた隣の扉へ。背の低いシダも現れてくる。段々とこの空間は、自然に飲み込まれようとしていた。一番端の重厚な扉。薔薇を模る装飾溝に、そのまま蔦が這っていた。沈黙する人工物。そぐわないはずの光景はある種の静かな調和を生み出していた。振り返って、通路の続きを見る。エントランスホールをぐるりと見下ろすようにして通路が続いている。その左通路の途中にある、割れて消灯した非常灯のある扉から、私は外に出た。
「フーッ……フーッ……フーッ……」
募る風に悪寒がする。マスクをしている私の息が、耳にぶつかって局所的に暖かい。手に触れる手摺は、折れそうなほどに冷たい。微熱のせいで血のめぐる箇所がちぐはぐになって、身体の様々に冷熱が繰り返される。倦怠感がゆっくりと、身体のあらゆる空洞に詰め込まれて溜まってゆく。意識は霞がかり始めていた。
「ゴホッ、ゴホッ……んっ、ゴホッ……」
せき込んで頭が揺れる。そんな些細な動作にも頭痛が付きまとう。立ち止まって、見上げる。螺旋に渦巻いている階段、錆の回って空いた穴、手摺と柵。隙間という隙間から斜陽が注いでいる。一段、上がる。夕闇は私を穏やかに包む。そのまま、断続的に歩む。一つ一つ確かめるように上る。それでも私の息は呆気なく切れて、ついには俯いてしまった。足元には疎らな影絵。私の後ろを着いてくる。そして片足が着地するとともにピタリと止まる。幾何学模様の影絵。足元にばらばらと落ちる、私を模した歯車のようだ。私の体から零れ落ちていくその歯車たちを、一つ一つ丁寧に見届けていた。拾い上げることは、決してなかった。
ついに屋上へとたどり着いた。夕陽は全円を欠こうとしていた。螺旋階段の到達点は、屋上の四隅のうち南東の方につながっていた。全身は火照りつつも、風が外套の中へ侵入するとたちまち冷えた。悪寒がする。しばらく私は、まだ赤錆の少ない丈夫そうな鉄柵へともたれかかって、座り込んだ。荒らげた吐息の白さが、私に生の実感を抱かせる。落日の中で、一息一息がより白く濃くなっていく。平穏を保とうと異常に上下を繰り返す体内温度。視界の半分を占領する前髪。折れそうな爪。喉の渇き。筋肉の疲労。眠気。涙。私の全身は今、必死に生きようとしている。生命を維持しようと懸命に働いている。ただ唯一、心のみを除いて。
学校は、社会の縮図と喩えられる。序列があり、ヒエラルキーが形成される。教室は感情を精製する坩堝となって、行き場のない負の感情は、やがて底へと集まり澱みとなる。この澱みは、痛い。触れるだけで毒のように体を蝕む。私はそこへ、私の意志とは別に放り投げられたのである。
私は、生死に関わることを除いて「ありとあらゆる」仕打ちを受けた。心身ともにひどい苦痛を味わった。——私の心身には他人には見せられない傷が未だに残っている。ありとあらゆる、その言葉の意味を理解するものは少ない。「たった数年間」。そう言う人間が幾度となく私の目の前へとやってきて講釈を垂れてきた。その度にどこにもぶつけようのない気だるさと殺意が心の杯を満たす。しかしそれは蒸発し、またすぐに空の心に戻るばかりである。私は社会を憎んだ。嘆きの声は誰にも届かない。私の心の中だけで反響し、抑えられないほど増幅した。それでも、どうにか生きた。私の命は生きようとしていたからだ。
今沈もうとしている陽が夜明けを告げる前、昔の「遊び仲間」が私のところへ訪ねてきた。夜のしじま、冷たい風に雪が混じる。家路の終着点。その扉の前に、彼女はいた。
「久しぶりじゃん。」と言った彼女の吐く息は、今まで見たどんな感情よりも朧だった。
私は頭が真っ白になった。唇が震える。視界は点滅を繰り返す。フラッシュバック。彼女は苦しそうな顔をした。身形はみすぼらしかった。彼女の体が震えているのが外套の上からでも分かった。それもそのはずである。外套の下には薄いジャージが見える。靴下に穴の開いたサンダル。手袋もせずに、その腕には小さな毛布を抱いていた。
「あんたに伝えたいことがあって……。」
私は身構える。安全領域を侵された不安感と過去に染みついた恐怖が全身を巡っていた。
「私、もう、帰る場所がないから、それで、一つくらいは嫌な思い出を消したくて……。」
彼女の言葉は要領を得なかった。ところどころ飛躍して、理解が追い付かない。しばらく唸ったあとに、ついに沈黙してしまった。
彼女の頬は妙に赤かった。そして息を荒らげている。この表情の辛そうなのは運動のためではないのであろう。もしかすると、私の呼吸であったかもしれない。苦しいのは彼女だけではなかった。
「あの……。」
ついに口を開く。
「あの時は、ごめんね。」
私は愕然とした。小さな汚い犬を見ているような気分になった。
彼女の言葉は、振り絞った最後の一滴だった。しかしその滴は、私の心にある感情の杯を、たちまち満ち溢れさせた。零れ落ちる黒い水は、やがて全身の隙間を埋めた。煮え滾るタールのような血の熱が起こる。
ふと彼女は胸に抱く赤ん坊をみて微笑んだ。その安らかな笑みは。彼女の身形から察する現在の境遇を鑑みても、幸せを一度目にした母親の顔だった。
それが分かった瞬間に私の体は激情に駆られた。もう、抑えられなかった。バッグの中から化粧ポーチを取り出す。その中にあったアイブローシザーズ。固く握り締めて——
緩慢に立ち上がる。冷や汗をかいている。身体はすっかり冷え切って、末端から徐々に感覚が失われていくのがわかった。
「……幸せって何だろうね。」
彼女がうずくまって最期に言った言葉を思い出した。あまりに身勝手な言葉だった。
「……一緒に……逝けると思うな。」
首の動脈を掻っ切る。私は動かなくなった彼女の抱く、柔らかい毛布の塊を奪い取った。赤ん坊は母親の血に濡れて泣き喚いている。辛うじて薄ら目を開ける彼女の服を剥いだ。私はその時、悪魔になっていた。彼女のその身には、真っ黒い大きな痣がいくつも見受けられた。しかしその体の前部には、私の穿った傷以外に、何一つ創傷は見受けられなかったのだった。
私はよろよろと屋上の隅から中央へと歩き出す。西を向くと、夕陽が真正面にひどく大きく見えた。それでも、少しずつだが驚くほど速く、黒の稜線に沈んでゆく。
私は前へ歩みだした。震えている。つま先から頭まで。だが心は絶対に停止を許さない。少しずつ、少しずつ。私の双眸は赤熱する太陽のみを捉えていた。歩みはむしろ速くなる。弧と弦の境が消えた。熱は私を欺いたままだ。地の上でどろどろと溶解していく。靴音だけが鼓膜を揺るがす。赤熱する残滓が煌めいて——
私は柵へもたれかかるように体を自由にして、しかしあるはずの柵が朽ち果てていたことは、先程に確かめたことであったのだ。
何もかも、もうよいのだ。罪は消えない。彼女も、私も。これから起こり得るはずの幸せは、昨日すべて失った。この体の創傷は癒せなくなった。きっと、最初からこうだったのだ。傷口から腐朽し、骨肉を蝕んでしまったのだ。生きようとする身体、鏡に映る私は実に惨めで、しかし他人から憐れみを受けるのは死ぬより不快であったのだ。全てのものが光芒のように糸を引く。目を瞑る。瞼の裏にある仄かな赤みが闇に滲んで溶けていく。あぁ、綺麗だ。
私は車を走らせた。血塗れのままに、遠くの町にある少しだけ有名な病院。この国で唯一の、「赤ちゃんポスト」のある病院へ。
「——。」
最期に小さく呟いた。あの赤ん坊に付けた名前。
私の名前。
ぐしゃり。