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電気屋のS

わたしたちがいたテムズ川は、同じ場所に24時間以上ボートを止めておくことができないルールになっていたが、ダイアモンドとWのボートは、10日ほど同じ場所にいた。


そろそろお役所の人たちが移動しろ、罰金を払え、などと言うようになっていたので、ある日Wが自分のボートだけ動かしてどこかに行ってしまった。


わたしと旦那が仕事から戻ると、ダイアモンドだけがポツンとそこにいた。


わたしたちはこの辺りの、どこにボートを止めていいかわからなかったし、土地勘があまりなかった。

わたしも旦那も仕事に行かなければいけなかったので、ボートをどこかに止めたとしても、そこからどうやって駅まで行くのか、さっぱり予想がつかなかった。


おまけにWがいなくなったら、発電機も使えなくなる。

もちろん自動的に家電は使えなくなる。


旦那は、10年以上も付き合いのあるWを親友だと思って信頼していたのに、電話の一本もなく消えたことにショックを受けているようだった。

それなのに「あいつがどこに行こうがオレはどうでもいいんだ。オレたちが頼り過ぎたんだ。自分たちでそろそろ動く時期だ」と強がった。


これからボートをどこに移動しようか、などと旦那と話していると、電気屋のSがやって来た。

旦那がWのことを少しだけグチると、Sは丁寧にどこに止める場所があるか、トイレの汲み取りや水の補給をどこでするかなど、必要なことを教えてくれた。

そして言った。

「12ボルトから240ボルトに変えるのなんて、オレがやってやるよ。オレは電気屋だ。こんなの半日も要らない。コードやコンセントの差し込みとか必要なものを買ったら、ビール何本かと引き換えに近いうちにやるって。安心しろ」


240ボルトの環境さえ完了すれば、エンジンで電力を作ってバッテリーに充電させておけばいいので、しばらくは発電機がなくてもなんとかなるのだと言う。


そして「オレのボートは他の仲間たちがいる場所にあるんだが、なぜだかそこだけ停滞期間の決まりがないから、みんな居座ってるんだ。明日、そこにボートを動かして来い。みんなで少しずつ動かしたら、ボート一隻ぐらい軽く入るよ」と言った。


なんていいヤツなんだ。

わたしはSを見直した。

なぜ見直したかって、彼は酔うと凄くうざったかったからだ。

カラオケ大好きで、人の顔の真ん前で拳をマイクにひたすら歌うし、しつこいし。

声はでかいし、慣れなれしいし。

おまけに失礼だし。


始めてSに会った時、彼はわたしに言った。

「お前は変なアクセントで話すなあ。オレの奥さんもロシア人で、変な英語を話すんだ」

そして、「ハニャホニャホー。ハイ!」とか変な日本語のマネをして、「オレは今、日本語でなんと言ったんだ?」とわけの分からない質問をしてきた。

会うたびにこんな感じで悪気はないのだろうが、わたしはかなり無視し続けていた。


Sの話を少ししよう。

Sはダブルベットが入って、イス一つ置けるぐらいのスペースの釣り用ボートに住んでいた。

中には小さい流し台とカセットトイレがあった。

そこで2歳の子供と奥さんと3人で住んでいた。

ダイアモンドでさえ狭いと思うのに、その三分の一以下のサイズのボートで、どうやって暮らしていたのか謎だった。

Sが言うには、奥さんは今、子供とロシアの実家にいるそうだ。

3月には戻って来ると言うが、その時点で11月中旬を過ぎていたので、奥さんはずいぶん長いこと実家に帰っているんだなあと思った。


Sは電気屋と言ってもただの電気屋ではない。

大きいイベントや有名な大会などで、電気類全てを任されたりして、忙しい時期はとても忙しい。

収入がいいので毎日コツコツ働かなくても、一回の仕事の契約で、どーんと稼げるのだと言う。


周りの話を聞くと奥さんは、Sの行動に呆れ果ててロシアに帰ってしまったのだという。

大きいボートを買うのが条件で、また戻って来ることになったが、冬の間小さい子供とボート暮らしは大変なので、春まで帰ってこないのだそうだ。


だいぶ後に知ったのだが、Sの奥さんは、なぜだかボート仲間たちにはよく思われていなかった。

彼女はお金目当てで、彼と一緒になっただの、彼をコントロールしようとしている、性格悪いだの、散々言われていた。


実際わたしが会った彼女は噂とは違った。

当時24歳だった彼女は、小さくてかわいくて、14歳ぐらいの子供に見えた。わたしと旦那を「ボート生活で初めて会った普通の人」と言った。

個性の強いボート仲間たちの中で孤独だったらしい。


Sとは旅行先で出会い、ロシアに戻ってから妊娠が発覚した。

それでSは、彼女と一緒になることを決意したのだ。

彼にとっては二回目の結婚だったのと、妊娠も重なって、結婚式は役所でサインをするだけのシンプルなものだったらしい。


ボートコミュニティはとても小さい。少しのことが大きくなって噂になる。そのかわり気にしなければ、みんなすぐに忘れてしまう。

それなのにSの奥さんは気にして人前に出てこなかったり、誰にも挨拶もしないで、逃げるようにボートに入ってしまうのだった。

かと思うと、みんながパーティーをして騒いでいるときに旦那を連れ戻しに来るので、余計に悪い印象を周りに与えてしまっていた。


Sは彼女と子供を呼び戻すために、大きいボートを購入し、無事に家族3人そろったと思ったが、状況は変わらなかった。

そして周りも、「Sの奥さんは旦那に大きいボートを買わせて、子供と買い物に行き、ブランド品ばかり持っている」などと言われるようになり、初めは同情していたボート仲間の彼女たちまで敵に回してしまった。


Sもできるだけ家族との時間をとるようにして、ボート仲間と連むのを控えたりしたのだが、二人が分かり合うことはなかった。


しばらくして彼女は子供を連れてボートを飛び出し、離婚訴訟を起こした。

キズついたSはみんなの同情を買った。

のちに彼女は国から生活保護をもらい、家まで与えてもらうことになったのだ。


彼女はたた単純に普通というものを求めていたのだと思う。

子供のために水も自由に使えて、酔っ払いがいつも騒いでいないような環境で、家族3人でひそやかに暮らしたかっただけなのだろう。

彼女と話すたびに「普通の暮らし」という言葉が、いつも彼女の口から出てくる。

ある日彼女は、笑いながら冗談でも言うかのように言った。

「妊娠中、ボートに水がなくって、頭が痒くて仕方なくって、昼間の人がいないパブのトイレで、こっそり髪を洗ったのよ。大きいお腹でキツかったわ」


わたしは胸が痛かった。

見えないところでSも家族を思い、彼女も家族を思って我慢していたのだ。


その全てがムダだったのか、それともいい結果に収まったのか、たぶん本人たちでなければ分からないのだろう。



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