大事件
娘の誕生会が終わってから数日後のある朝だった。
わたしはいつものように朝早く出勤する旦那を送り出して、今日一日の支度を始めた。
何も変わらないいつもの朝だった。
突然何かをドンドンと叩きつける音と、女の人の叫び声が聞こえてきた。
朝食を食べていた娘が驚いてわたしに抱きついてくる。
叫び声はすぐそこだ。
何をしているのか分からないが、叫び狂っている女は、何かを壊そうとしているらしく、ドンドンと戸を叩くたびにバリバリという木がきしむ音がする。
さすがのわたしも怖い。
窓からこっそり外をみると、女の人の叫び声の他は誰もいない。
思い切って外に出てみると、わたしたちのボートの後ろに住むBのボートのドアを、女が「出て来い!殺してやる!」と喚きながら狂ったように蹴っている。
Bは、まだ23歳の若い女の人で、親に寝室が二つもあるナローボートを買ってもらって優雅に暮らしていた。
さっぱりした性格で人付き合いも良く、よくボートの上に座って仲間と話していたり、ギターを弾いていたりする。
娘も彼女が外にいると手を振って喜ぶのだ。
女は何かの理由で激怒しながら、Bのボートのドアを蹴り破ろうとしているらしいが、Bは中にいないようだった。
「あの女の人、Bのボートのドアを壊す勢いだなあ」と、思いながらよく見ると、
わっ!なんと!!
その女はPのパートナーではないか!?
ウソでしょー!?!?
わたしが立ちすくんでいると、向かいに住む双子の片割れが、彼のボートから頭だけを出して小声でわたしに「中に入れ!」と合図して、「危ないから今は外に出るな」と助言した。
うう、そうなの?
って言うか、そうかも......
今は、見ていないふりをして隠れていた方がいいのかも......
そう思って中に入った。
娘が「だれ?なにやってるの?」と聞いてきた。
言えない...... 娘には言えない。
娘は、Pのパートナーが大好きで信用していた。
Pのパートナーはわたしより5歳上だが、成人した娘が2人いて、娘ぐらいの年の孫が3人もいる。
15歳で始めの子供を出産したのだそうだ。
彼女は見たくれは、元ヤンキーだったのかな、という感じだが、仲良くなると面倒見もいいし優しい。
わたしは、彼女に数回娘の面倒を見てもらったり、一緒に子供たちを連れて近くの公園で遊ばせたりしていた。
彼女の孫たちはPの本当の孫ではないが、子供たちはPを「おじいちゃん」と呼んで慕っていたし、Pもみんなを連れて旅行に行ったりして、本当に血の繋がった家族のように接していた。
わたしはそんな2人をよく知っていたと思っていたので、Pのパートナーが半狂乱になって叫んでいるのが信じられなかった。
少しして、Pのパートナーがドアを蹴る音が止んだので、窓からこっそりと外を覗いてみた。
娘を学校に連れて行く時間も迫っているので、ただ中で隠れているわけにはいかない。
うわ!
わたしは外を見てゾッとした。
こ、怖い! もーマジで怖いよう!!
Pのパートナーは今度はナイフ、いやいや、出刃庖丁を持って歩いているではないか!
ひー!!
しかも、「誰かあの女を隠してるんでしょう!出て来い!」と叫んでいる!
こ、来ないでー!
わたしは怖くて旦那に電話してしまった。
こんなときに限って旦那、電話に出ない!
と言うか、仕事中の旦那に電話したって、何ができると言うのだ。
で、でもなんか怖いし、どうしていいか分からない!
結局わたしは、Pのパートナーが少し遠くまで歩いて行った隙を見て、娘を連れてボートから飛び出した。
娘を学校に送って恐る恐る戻ると、Pのパートナーの姿は消えていて、双子の片割れが缶ビール片手にボートのデッキに座っていた。
わたしがPのパートナーのことを聞くと、「PがBと浮気した」と、絶対に信じられないことを言った。
だってP、Bよりも20歳は年上で充分大人だし、パートナーとは20年近く一緒にいるのだ。
そして、BもPのパートナーとは仲が良くて、おまけに彼女には彼氏がいた。Pの親友だ。
これって完全に修羅場じゃん......
わたしが驚いていると、双子の片割れが言った。「金だよ。金。女は金持ちの男が好きなんだ」
えー!そうなの?
でも、いくらなんでも、ちょっとは考えるよ。
別に人の見た目をどうとか言えないが、Pはつるっ禿げの恰幅のいい、ヤクザみたいな風格だ。
お金持ちが好きなら、別に小さいボートコミュニティの世界で金持ちを探さなくったて、外の世界にもっとたくさんの選択があるはずなのに......
なんだかよく分からないが、あれ、いつも接着剤でくっついたみたいに一緒にいる、双子のもう片方が見えないなあ。
「彼は珍しく朝から出かけているの?」と、わたしが片割れに聞くと、「ああ、あいつはちょっと体調を壊して、姉の家に静養しに行ったよ。しばらく帰らないんじゃないかなあ」と言った。
えー大丈夫なの?
わたしが心配していると、向こう側でボート仲間の男3、4人が怒鳴り合う声が聞こえてきた。
見ると、怒鳴り合うどころか殴り合いだ。
何なに!?
なんで皆さんそんなに気性が荒いの?
わたしと双子の片割れが呆然としていると、殴り合っている男たち中の1人が、勢いよくこちらに向かってやって来た。
Bの彼氏ではないか!?
うわ!
なんだか金づちを持っている!
出刃庖丁の次は金づちか?
Bがいたら、絶対にこいつか、Pのパートナーに殺されてるな......
Bの彼氏は息を荒げながら、わたしと双子の片割れに「Bはどこへ行った‼︎」と聞いてきた。
「し、知りません。朝から見てません」と言うと、「あいつ、殺してやる!」と言って、どこかへ行ってしまった。
そこへ今度は、ボート仲間の一人がベロンベロンに酔っ払ってやってきて、双子の片割れを見つけると、崩れ落ちるように泣き出した。
そして、片割れは彼を連れてボートの中に入ってしまった。
一体、みんなどうしてしまったのか......
わたしは呆然とした。
午後になって旦那から電話があった。
旦那はその日の朝にPと、お姉さんのところに静養に行っている双子の片割れから別々に電話があり、全ての事情をわたしよりも先に知っていた。
そしてわたしに、「皆、気が立ってるから絶対に余計なことは言わず、できるだけ誰にも関わるな」と前置きして、びっくりしていたわたしが更にひっくり返るぐらい仰天してしまうようなことを言った。
Bはなんと、ボート仲間たち数人の男たちと関係があったのだと言う。
静養中の双子の片割れもその中の一人だったのだ。
彼も含め、全ての男たちが、Bが自分に気があるのだと思い込んでいたようだった。
そんな矢先にBとPの関係を知って、男たちは激怒したり、落ち込んだりしているのだと言う。
そして身の危険を感じたPは、Bに「しばらく実家に隠れているように」と指示したそうだ。
そして自分も、親戚の家にしばらく身を隠すことにしたのだそうだ。
たぶん、Pのパートナーはその頃、Pの居そうなところを、血眼になって探していただろう。
幸いBの彼氏は ( ってことはもう彼氏ではないのか? ) Bの実家がどこなのか知らない。
って言うか、双子の片割れも、いつもワイルドで、はちゃめちゃなくせに、こんなことで落ち込んで静養しに行くとは......
その週は、あれよあれよと言う間にボート仲間たちの結束が崩れていった。
嫌気がさしてコミュニティから去って行ったボートも何隻かあった。
女性陣は皆不機嫌だし、男たちは荒れていた。
旦那はPとよく連絡を取っていたようだった。
Pが彼のボートのことで心配なことなどを旦那にお願いしたりしているうちに、「旦那はスパイだ」と言う人まで出てきたりと、余計なとばっちりまで回ってきたりした。
いい加減、旦那も愛想を尽かしてしまっていた。
2014年、もう少しで10月も半ばに入ろうとしていた。
いつもは冬に向けてボート仲間たち皆で薪を割ったり、水を確保したりと助け合うのに、その年はとても静かで、皆自分たちで事を済ませているようだった。
あんなに家族みたいに仲が良かったボート仲間たちが、バラバラになってしまった。
長いこと守り続けてきたボートコミュニティの結束を壊してしまったのは、お役所でもなく地域住民でもない、ボート仲間たち自らだった。