歩いた!
2012年8月末、娘もあと1カ月で2歳になろうとしていた。
相変わらず歩く気配もなく、立とうとすらしない。
それなのによく喋るのでバランスが悪い。
わたしも旦那も周りの知人たちも、もう娘に「いつ歩くの?」と言うのも飽きてきた頃、それは突然やってきた。
まだ夏の太陽が眩しい暖かい週末、わたしたち3人はボートのすぐ目の前にある広場でピクニックをしていた。
ボートの中は暑いし狭いので、天気がいいと、わたしたちはいつも外で敷物を敷いて過ごす。
食事をしたり、おもちゃを出して娘を遊ばせたり、時にはコインランドリーで乾かしたばかりの大量の洗濯物を畳んだり。
その日もわたしたちはランチを食べてから、のんびりとくつろいでいた。
娘はご機嫌で、お尻でぴょんぴょんと飛び跳ねながら芝生をあちこち移動して喜んでいる。
旦那はまたもやビール片手に通りかかったボート仲間と話しをしている。
わたしは残り物をつまみながら見慣れた平和な風景を眺めていた。
少しすると、ぴょんぴょんと飛び回っていた娘が突然止まった。
「何か面白い物でも見つけたのかな?」と思いながら彼女を観察していると、なんと!
手をついて、お尻を持ち上げ、何を思ったか立ち上がったのだ!
ムリやりさせないとつかまり立ちすらしなかったくせに、何の予告もなく、まるで立ったことがあるかのように、普通に難なく立ち上がったのだ。
何、なにー!?
もしかして、娘、わたしたちが寝ている間とか、見ていない隙に立つ練習でもしてたのかー!?
とにかくわたしは世界がひっくり返ったのではないか、というぐらいに慌てて旦那を呼んだ。
旦那も大慌てで持っていたビール缶をボート仲間に渡し、娘の2メートルほど前にしゃがんで手を広げた。
「ここまでおいで」
わたしはあたふたとケータイを探す。
写真、写真、いや、動画かー!
娘は両手を前に伸ばして、手を広げた旦那の方に向かってトコトコと歩いた。
歩いたー!!!
娘が歩いた!
ついに歩いたのだー!!!
2歳の誕生日を目前に、娘はやっと、やっと歩こうと思いたったのだ!
娘は数歩進んで旦那に抱きついた。
たった数秒ほどの出来事だったが、人類が、空を飛んだぐらい大きな出来事だった。
わたしと旦那は嬉しくて「イエーイ!!」と発狂し、周りのボート仲間たちも拍手喝采だ。
広場を散歩している人たちは何が起こったのだろうと、不思議そうにしている中、わたしたちはキョトンとした娘を抱きかかえながら、大喜びではしゃいだ。
だって、ほんの数分前までは、まさか娘が歩き出すなんて思ってもいなかったのだから。
こうして何の予告もなく、いきなり歩き始めた娘。
約2年間足を全く使っていなかったので、歳の割には足が小さい。
その小さな足でバランスが取れるだろうか、と心配したが、その翌日、少し歩くのを怖がっておぼつかない足取りだったが、2日目からは普通に歩いていた。
今まで歩かなかった期間は一体なんだったのだろう......
娘が歩くまで、わたしと旦那は待って待って、心配して泣いて、時には悔しい思いすらした。
それなのに、歩き出してしまうとなんてことはない。
歩いたと喜んだと思ったら、今度は違う心配が増えた。
ボートから一人で勝手に外に出ないかとか、川沿いで遊んで滑って川に落ちないかとか、突然いなくならないかとか、本当に心配は尽きない。
またテムズ川に過酷な冬がやって来る。
歩き出した娘はどんな冬を過ごすのだろう。
ボートの中は狭くて歩き回るのは不自由だろうから、寒くてもどんどん外で遊ばせなければいけないだろう。
一つ変化があれば、また違う変化が付いてくる。
嬉しいことや感動的なことがやって来ても、大変なこともやっぱり一緒についてくる。
「人生ってなんだかシーソーみたいなもんだなあ」と、川沿いを念願の長靴で危なっかしそうに歩く娘を見ながら思った。