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優しい保健婦さん

娘が産まれてから1年半が過ぎた。


実のところ、この間の記憶がなぜだかあまりない。


双子兄弟がご近所さんになったりとか、コミュニティーが変化してきたこととか、大きい出来事は覚えていても、細かいことは思い出せないのだ。


特に子育てに関しては、おおざっぱにしか思い出せない。


1年半どうだったかと聞かれると、とにかく過酷で忙しかったとしか言えない。


娘の食にはすごくこだわった。

ボートに住んでいるからと言って手を抜きたくなかったので、離乳食が始まってからはやることが更に増えた。


冷凍庫がないというか、冷凍できるほどの一定の電力がないので、まとめて作ることができず、その都度手作りした。

まあ、自分たちの食事を作るときに取り分けておけばいいのだが、バランスよく食べさせてあげたいので、手間が増える。


毎回茹でたり、食器や鍋を洗ったりできるほど、水もふんだんに使えないので、手作りのおやつもあまり作れなかった。

考えた末、彼女のおやつは生の人参やセロリ、トマトなどになった。

おかげで彼女は、キャベツやリンゴなどをバリバリ食べてくれるので、野菜を食べてくれないと困ることは未だにない。


困ったのは、すすとホコリだらけのオモチャだ。

娘がなんでもかんでも口に入れ出す時期は、冬は薪ストーブですすだらけ、夏は開け放した窓やドアから入るホコリで汚くなったオモチャを毎日拭き続けた。


そして、もちろん床も毎日隅から隅まで拭く。

水が思う存分使えないので、キッチンペーパーや濡れティッシュなどを大量に使う。


なんだかお金がかかる。


そして、娘が日中狭いボートの中で長い時間を過ごさないように、色んなところに連れ出す日々。


ゴミを毎日離れたところまで持って行き、コインランドリーに行ったり来たりして、やることが多いのに、更に日々どうやってやりくりするか、どうやって水や電気を最小限に抑えるか、などを考えながら毎日過ごしている間に、毎日が楽しいのか楽しくないのかさえ忘れてしまっていた。


それプラス、わたしは娘が1歳を過ぎてから仕事復帰した。

パートで週2から3日だけだが、その分家事仕事が増える。

もちろん旦那もがんばったが、旦那も薪割りや水の確保、定期的に壊れてくれるエンジンや、発電機の修理などに追われて、育児の手伝いにも限界があった。


いつの間にか気がつくと、娘が1歳半を過ぎていた。


周りの同じ歳の子供たちは歩き出しているが、娘はつかまり立ちすらしてくれない。

というか、ハイハイもしない。


わたしは娘がハイハイするのをとても楽しみにしていて、お尻にパンダやクマがついたレギンスを買っていたのだが、そのかわいいお尻が動いているのを見たことがない。


いつハイハイを始めるのだろうかと、毎日床をピカピカにして待っているのに、いつまでたっても娘はハイハイをしてくれなかった。


彼女は座ったまま、いつもニコニコとオモチャで遊び、大好きな歌を歌う。


いつだったか、わたしがキッチンで作業をしてからラウンジの床で遊んでいる娘の方を見ると、娘がいない。


あれっと思ったら、なんとバスルームの近くで座って遊んでいるではないか!


まさか、見ていない間にハイハイか立ち上がってここまで来たのか!?と思って観察していると、座りながら足を使ってお尻でズリズリと前に進んでいるのだ。


そう、娘はいざりっ子、シャフリングベビーだったのだ!


他の子よりも足が小さすぎるので、足の筋肉でも弱いのかと思っていたが、まさかお尻で移動しだすとは......


周りはかわいいだの面白いだのと笑うが、わたしは心配で心配でたまらなかった。


ボートが酷く揺れるのと、狭い環境で、娘は自分なりに生活に合った動き方をしているのかと不敏に思ったり、石炭やディーゼルの匂いで脳に障害でもあるのかと、毎日毎日ネットを見たりして心配した。


わたしが怖かったのは、1歳を過ぎたばかりの娘が、保育園で覚えてきた歌を次々と正確にしっかりと歌うことだった。

1歳半になり、歌のレパートリーも増え、英語と日本語でほとんど正確な音程で完璧に歌い上げる。


自慢できるはずのこの行為が、なんだかとても恐ろしかったのだ。


ハイハイもできないし歩けないのに、歌は3歳児なみにしっかりと歌えるなんて、どこかおかしい。


この頃、娘と同じくらいの子供たちは全員歩いていた。

走っている子供もいた。


今まで一緒に遊んでいた友達が歩き出して、娘もそれを見て足でドンドンと床を叩いて悔しがったりするようになった。


そんな娘を見ながらずっと心配して泣いているわけにはいかない。


わたしは近くの診療所に行き、保健婦さんに相談することにした。


娘を保健婦さんのところに連れて行く数日前、わたしは偶然に電気屋のSの逃げた元奥さんに町でバッタリ会った。


彼女とSの間に産まれた娘さんはもう小学生になっていて、学校で毎日を楽しく過ごしていて、Sの元奥さんも小さいながらも国から与えられたアパートで平和に暮らしてるようだった。


彼女はまだボート暮らしをしているわたしを心配してくれて、娘のためにボート暮らしは早く抜け出した方がいいと言った。


わたしが、「娘がシャフリングベビーで、未だに歩かない」と言うと、Sの元奥さんはびっくりした顔で「わたしの娘もそうだったのよ! しかも彼女が歩いたのは2歳半過ぎてからだったの!」と言った。


そしてわたしと彼女は、ボート生活で自分の娘を窮屈な環境においてしまったのではないかということを話した。


もしそれが本当だとしたら、わたしは娘に酷いことをしているのではないか、と自分を責めた。


わたしたちがボートを買うと決めなかったら、もう少しお金があったなら。


考えても後悔しても、今の暮らしをこれ以上変えることはできなかった。


時間がある限り娘と外に出て、できる限り娘が健康でのびのびと暮らしていけるように尽くすしかなかった。


わたしの中で、ボート暮らしには、もう限界があった。

旦那もそれを感じていた。


そして、状況すらかえられないわたしは、母親としての自信を完全に失くしてしまっていた。


2012年6月。


イギリスの初夏は冬が嘘だったみたいに眩しい。

時々真夏かと思うぐらいに暑い日もある。


わたしは不安な気持ちで保健婦に会うために診療所に向かっていた。


子供たちが元気に走り回って遊んでいる公園を通り過ぎ、まだ歩かない娘をベビーカーに乗せながら、「いつになったら他の子のように歩いてくれるのだろう」と思った。


娘はのんきに大きな声で歌を歌っている。

その無邪気な歌声は、わたしを更に不安にさせる。


娘に何か問題があったら、ボート暮らしを保健婦さんに責められでもしたら。

考え出したらキリがない。


娘の担当の保健婦さんは、娘が産まれた時から彼女のことを知っていた。


検診やら体重測定のたびに、わたしは毎回娘を連れて行っていた。

他の母親たちも保健婦さんに話を聞いてもらいたくて時間を取ってしまうので、わたしはなんとなく遠慮していつも聞きたいことを細かく聞けずに、用事だけ済ませて帰ってしまう。


なので、担当の保健婦さんにとって、わたしたちの印象は薄いだろうなあ、と思いきや、保健婦さんは1番に「まだボートに住んでいるの?」と聞いてくれた。


わたしがいつもさっさと帰ってしまうので、娘の成長もそうだが、わたしたちの生活がどんな状況かと心配していたので、来てくれて嬉しいとまで言ってくれた。


保健婦さんに個人的に予約を取ると大体15分の面談時間が与えられるのだが、今日はわたしのために30分取ってあるので、ゆっくり話がしたいという。


わたしはなんだかびっくりした。


聞くと、保健婦さんも地域の新聞を見たらしく、ボート住民のことが書いてあったので、もしかしたらそのコミュニティーの中にわたしたちがいるのではないかと思ったらしい。


その通りです。


そりゃあ、ボートに住んで、住民に文句を言われて、地元のマイナーな新聞だが、記事になってしまったら、どんな生活をしているのかなど気になるだろう。


わたしは大まかにボート生活のことを話し、こんな生活で娘に何か障害があったり、成長が遅れてるのではないかと、思っていたことを正直に彼女に相談した。


ボートでの暮らしや、どうやって娘を育てているかなど、他人に素直に話したのは初めてだった。


保健婦さんはまるで理解している精神科医のように真剣に話を聞いてくれた。


わたしは、話しながら泣いてしまうのではないかと、自分で自分を抑えながら話す場面もあった。


保健婦さんは娘に話しかけたり、積み木やハンカチなどを使って娘の反応をチェックしたりした後、「どこにも問題は見当たらないから安心しなさい」と言ってくれた。


「でも、問題がないならなぜ娘は1歳8カ月を過ぎても歩こうとしないのか?

歩けないのになぜ歌だけはしっかりと歌えるのか?」

と、わたしは聞いた。


保健婦さんは少しだけ、イギリスでおなじみの動揺を口ずさんで娘に聞かせると、娘は大喜びで歌い出した。


出てくる出てくる、色んな歌が。


「彼女、歌が好きなのね。お母さんがいっぱい歌ってあげてる子供は、これぐらい歌えるようになるのよ。本をいっぱい読んでくれる親の子供は、このくらいの年で好きな本を暗記してしまうこともよくあることだし。全く問題ないわよ」

と、保健婦さんが言ってから、わたしは思い出した。


わたしたちのボートには、日中好きに使えるほどの電力がないので、わたしは娘が産まれてから、テレビやステレオ代わりに毎日歌を歌っていたのだった。


家事をする時も、娘がグズったときも、ボートの中にいるときは歌を歌って娘をあやしていたのだ。


そうだったのか。


そして、保健婦さんは「彼女はボトムシャッフルだけど、広い家に住んでいてもお尻で移動する子供は結構いるし、ほとんどの確率で歩き始めるのが遅いけど、将来的には何の問題もなく歩き出すから、3歳過ぎても歩かなかったら心配しなさい」と言った。


と言うことは、わたしの取り越し苦労だったってことー?


保健婦さんと話していると娘が何か食べたいと言うので、わたしはいつものようにセロリを差し出した。

すると、保健婦さんは目を丸くして、「セロリ食べるの?」と驚いたようだった。


わたしは、「子供用のお菓子は高いし、ボート生活で手作りは手間が多いから、彼女には悪いが、オヤツは生の野菜やフルーツになってしまう」と説明すると、保健婦さんは胸に手を当てて「すごい!」と言うのだった。


すごい?

すごいって、そうだよね、野生的だよね......


わたしが困っていると、保健婦さんはなんだか感動したように、と言うか、興奮したように言った。

「世の中には、忙しいからと言って子供にスナックやら甘いお菓子などを与えて楽をしている親はたくさんいるのに、あなたは厳しい環境の中で本当に良くやっているわ」


そして言った。

「国はあなたのような人を援助するべきなのよ。ボート生活が大変だから家に移りたいと申し出たら、援助が受けれるんじゃないかしら。今の状態ではこれからもっと大変になるって誰が見てもすぐに分かるもの」


ええー!?

なんだか思わぬ展開に......


保健婦さんは「とにかく役所に連絡して家を手配してもらいなさい」と言い、「必要ならわたしが手紙を書くから、いつでも連絡しなさい」と言ってくれた。


わたしが、「生活保護を受けるのは気が引ける」というと、彼女は「そんなふうに思ってはいけないわよ。必要だから、必要な人に手助けしてくれる機関があるのよ」と言ったのだった。


そしてわたしに何度も「あなたは素晴らしい母親なのだから、自信を持ちなさい」と言ってくれた。


娘が産まれてからそれまで、こんなことを言ってくれる人は誰一人いなかった。


今まで悩み、苦しんできたことが、保健婦さんに会って本当に嘘のようにどこかに行ってしまった。


このイギリスで、ジプシーみたいにボート暮らしをしている外国人のわたしを、人として正当に扱ってくれたこの保健婦さんに、わたしは心から感謝した。


帰り際、また来た道を戻り、公園の前を通った。

子供たちが走り回っている。


わたしの気持ちは「娘はそのうち歩いてくれる。絶対に」という強みに変わっていた。


娘がいつものように楽しそうに歌っている。

歌が大好きな娘は、わたしの自慢の娘だ。


ボートが狭くても暮らしは過酷でも、貧乏な生活を送っていても、彼女が歌い続けているうちは、ずっと幸せなのだと思った。


素直にボート生活の状況を話したら、お役所さんも理解してくれるだろうか?


これからのことは行動してみないと分からない。


少しだけ勇気が湧いてきた。


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