不思議なTO
長い冬を抜けて、もう少しで3月になろうとしていた。
イギリスの春はまだ遠い、と思うぐらいまだまだ寒い。
厳しい冬のボート生活を懸命に生きている間、ご近所さんたちはだいぶ顔ぶれが変わっていた。
若者ヒッピーたちは辛い冬のボート暮らしに音を上げて、ほとんどがいなくなってしまっていた。
聞くところによると、彼らはなんとほとんどが中流階級のお子さんたちで、帰ろうと思えば居心地の良い家があるのだから、辛かったらいつでも帰れるのだそうだ。
彼らはヒッピー暮らしに憧れて、長いホリデーをとっていたようなものだ。だから、結局ボート暮らしに残った人たちは、本当に生活に困ってボート以外に住むあてがない人たちか、ボート生活が気に入ってしまった人たち、古いボート仲間たちだけになってしまった。
その中には、なんだか知らないが、テムズ川を散歩ついでにボート仲間たちと気が合って、そのまま誰かのボートに居座ってしまった人もいれば、親からボートを買ってもらって、ボート生活に居座ることになったどこかの娘さんや、息子さんもいた。
それにしても、お金に余裕がある人たちが買うボートはすごい。
広いだけじゃない!
作りがしっかりしていて、テムズ川の水を再利用してシャワーなどに使える浄水システムが導入されていたり、お風呂があったり、洗濯機があったりする。
10代の若者の方が、わたしたち中年カップルよりもいい暮らしをしているとは......
そんな人々の入れ替わりの最中、わたしたちの古いボート仲間の一人TOが、「この冬は厳しかったし、自分も年をとってきたから、ボートを売って新生活を始めたい」と旦那に言っていたのを聞いた。
そうか、TOもいなくなるのかあ......
TOはボート仲間の間でも、いるかいないか分からないぐらいに、おとなしい存在だ。
パーティーやバカ騒ぎには参加しないで、のんびりとお気に入りのマグで紅茶を飲んでいる。
いつも肩を丸めて静かに歩き、ゆっくりとした口調で話しをする。
彼は植物をこよなく愛し、近くのガーデンセンターで庭の手入れをする仕事をしていた。
いつだったかTOは旦那に「仕事をしている時が一番リラックスできる」と話していた。
TOのボートはわたしたちのボートと向かい合わせで、一番近いご近所さんで、一番おとなしい住民だった。
少ししてTOはついに「セール」とボートに広告を張り出した。
夏のボート生活が一番楽しくなる前にボートを売りに出すのか、よっぽどボート生活から早く抜け出したいんだろうなあと、わたしは思った。
そして張り紙のボートの値段を見て、わたしと旦那はビックリした。
彼のボートはカナルボートだが、わたしたちの3分の1サイズ。
トイレと小さい流し台にベット、シャワーは付いていない。
それで、わたしたちのボートの値段よりも高い値段で売りに出していた。
どう考えても高すぎる!
この値段を払うんだったら、もっといいボートが買える、絶対に!
「本当はボート、売りたくないんじゃないか?」と旦那が言った。
どうなんだろう?
ボート住民のメンバーが少しずつ変わり、若者が簡単に高価なボートを手に入れることができる状況を目の当たりにして、誰かが高額でボートを買ってくれると期待しているのだろうか?
それともただ現実をあまり見ないで生きるタイプなんだろうか?
なんだかとてもナゾだ。
ボート仲間たちがTOのボートの前を通り、皆驚いた顔で売り出し中の張り紙を見る。
TOは特に気にする様子もなく、背を丸めていつものように仕事に出かけて行く。
今までいるかいないか分からないような存在だった彼の存在が、ボート仲間たちの間で変に大きくなって、「ちょっと変わった人なんだろうなあ。ボートが売れるように幸運を祈るよ」などと、世間離れ並みに変わったボート仲間たちに、ひっそりと囁かれるようになった。
果たして彼のボートはちゃんと売れてくれるのだろうか?
貧乏なボート生活は大変だ。
家に住みたいとほとんどの人が一度は思う。( わたしはいつもそう思っていたが...... )
でも離れようと思うとなんだか惜しい気もしてくる。
TOも本当はそう思っていたのだろうか?
本当のところは誰も知らない。




