義母の死
2011年9月中旬、それは突然やってきた。
なんでもない普通の朝だった。
旦那は仕事に行き、わたしは娘に朝食をあげていた。
珍しいことに義姉から電話がかかってきた。
義姉は旦那に電話をしても、よっぽどのことが無い限り、わたしにかけてくることなどない。
「どうしたんだろう?」と思い電話にでると、旦那に電話をしても応答がないので、わたしにかけて来たのだと言い、「マム ( お母さん ) が死んだかもしれない」と言った。
寝ている間に心臓が止まり、朝には亡くなっていたのだそうだ。
誰よりも元気で良く働き、世話好きで頼り甲斐のある義母だった。
前日までピンピンしていたのだ。
誰が、その夜に亡くなってしまうなんて想像できただろう。
言うまでもなく旦那はパニックになった。
Pが車を出してくれたお陰で、なんとかその日は、早いうちに旦那の実家に向かう列車に飛び乗ることができた。
こんな時、ボート仲間たちは本当に頼りになる。
帰りがいつになるか分からないわたしたちのために、留守の間ボートを見てくれるし、何かあればすぐに連絡が来る。
義母が亡くなった最初の一週間は、イギリス版ドッキリカメラかもしれない、そうであって欲しいと願い続けた。
葬式などが始まって、やっと真実と向き合うようになった。
そして悲しみと同時に、なぜか怒りまで込み上げてくる。
歳をとってからも孫たちの面倒をみて、自分の旦那のために家事を完璧にこなし、その上子供たちの心配までして、どうして自分の旦那よりも10歳も若いのに、先に行かなけれないけないのだろうか。
義母はボート暮らしのわたしたちの貴重な理解者のうちの一人だった。
クリスマスになると、湯たんぽや携帯ラジオ、保存のきく缶詰など、ボート生活で活躍しそうなものを買いためてたくさん持たせてくれる。
娘のために細々とした赤ちゃん用品からおもちゃまで、どこかで見つけては買ってきて、次に会う時まで渡すのを楽しみにしていた。
わたしの母が来た時は、母に娘をいっぱい抱っこさせてあげて、「自分はイギリスにいて、日本にいる彼女よりも多く孫娘にあえるから」と言っていた。
それなのに、義母が楽しみにしていた、わたしたちの娘の初めての誕生日の2週間前に、帰らぬ人となってしまったのだ。
ボート生活が辛くなって義母の元に長く滞在したときも、ずっとわたしの世話をして気にかけてくれた。
不便な生活の中で義母がいる家は、わたしたちにとって憩いの場所だった。
彼女がいなくなってしまった家は、もう前と同じように安らぎの場所ではなくなってしまった。
旦那や家族は、わたし以上に混乱と悲しみの中にいただろう。
わたしですら立ち直るまで時間がかかったのだから。
最愛の母を亡くして旦那は弱気になってしまったようだった。
ボート生活が少し行き詰まると、「もうこんな生活をやめて家に住みたい」と言うようになった。
貧乏でタフな生活は、仲間がいて楽しいときは張り切って毎日を過ごすことができるが、精神的なダメージをうけると、がんばる気力が薄れてしまう。
かと言って、「じゃあ家に移りましょうか」と言ってすぐにできるわけではない。
ボートのローンと家賃の二重払いは到底ムリだし、ボートを売りに出してもすぐに売れるかは分からない。
旦那はこれからのことを考えるのすら困難なようだった。
それでも冬はやって来る。
薪割りやら水汲みなど、やることはやらなければいけない。
旦那は最愛の母がいないクリスマスをやっと乗り越え、ハッピーとは言えないニューイヤーを過ごし、春が来るまで相当辛くて、悲しい思いをしていただろう。
それでも、旦那はわたしや娘の前では絶対に泣かなかったのだ。
わたしもまた、子育てをしながら冬のボート生活は辛かったが、旦那にそれを愚痴ったり、イヤな顔を見せないようにして過ごした。
旦那のために、状況を何も知らない娘のために、できるだけいつものように、普段のようにと思いながら毎日を送っていた。
ある時ふと思った。
義母はボートで暮らしているわたしたちをどんな風に見ていたのだろう。
楽しそうに見えていたのだろうか、
それとも大変そうだと思っていたのか。
言いたいことや助言したいことはたくさんあっただろうに、黙っていつも理解を示してくれていた。
彼女に気苦労はかけていなかっただろうか。
何をどんな風に思っても、義母に問いただすことはできない。
今わたしと旦那ができることは、義母が良くやったと喜んでくれるように、毎日精一杯暮らしていくことだけだ。
わたしたちの長い冬は、始まったばかりだった。




