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お母さん

産まれてきたその日から娘は15分から30分おきにギャンギャン泣いた。

朝も夜も無い。

長く寝てくれても1時間、とにかく泣く赤ちゃんだった。


わたしは娘のことや経済的なことを考えて、完全母乳にすることに決めていた。

母乳はよく出る。でも娘は産まれてきたばかりのくせに、豪快にゴクゴクとよく飲む。

30分くらいはオッパイにくっついて離れない。

オッパイを飲みながら眠ったな、と思ってベットに置くと、またすぐ泣く。

今度はなんだろうと考えて、オムツを替え、肌着が痒いのだろうかとか、色々と考える。

でもなぜこんなに泣くのかさっぱり分からない。

さっきオッパイを飲んだばかりなのに、抱き上げると口をパクパクさせて必死でオッパイを探している。


えー、だってさっき飲んだばっかりじゃない。


仕方がないのでまたオッパイをあげる。

もしかして飲み過ぎじゃないの?


ネットで調べると3時間置きって書いてるものもあれば、母乳なら好きなだけと書いているのもある。


分からない、分からないけど30分おきにあげるのはどう考えてもよくない気がする。


わたしは寝る暇もほとんどなく、一日中もうろうとしながらオッパイをあげ、オムツを替え、少しウトウトとしてまた娘が泣くので抱っこして、少し寝たかと思ってベットに置くとまた泣き、オッパイをあげ、オムツを替え、というサイクルを一日中やり続ける。


ゆっくり寝る時間もなければ、ご飯を食べる時間も、シャワーを浴びる時間もない。


イギリスは出産後、数時間でさっさと家に帰される。

ゆっくり休んで体力の回復を待つ余裕などない。


母も旦那も、産まれたての赤ちゃんにそうとうビビって、オムツさえ替えられない。

お風呂にさえ入れられなければ、服さえ着せてあげることもできない。


娘は3800グラムと大きめで産まれてきて、首もそんなにグニャっとしていない、しっかりとした赤ちゃんだった。

それでも2人は「小さすぎる」と言って、抱き上げて揺らすのが精一杯のようだった。


その代わり、母は家事を全て担当してくれた。

旦那もボートのことは全て受け持ち、買い物、洗濯としてくれる。

でも一週間分の洗濯物を乾燥機で乾かして持っては来るが、たたんではくれない。

大量の衣類を母と一緒にたたむ。

赤ちゃんの衣類や小物も一回の洗濯では間に合わないので、母と一緒に手洗いをする。


そして、こんなに忙しくて疲れていて、本当は誰にも会いたくないのに、友人たちが次々とお祝いにやって来る。


狭いボートの中で全てが行われるので、わたしは頭がパンクするかと思うほど訳が分からなくなっていた。


この時ほど実家にいたらどれだけ楽だろうかと思わずにはいられなかった。


母は英語が話せない上に、青森の田舎で育ってきた典型的な日本人だ。

怖くて一人で買い物に行けなければ、町中を歩くこともできない。

東京に出るだけでも緊張するのに、一人でイギリスにやって来ただけでもすごいことなのだ。


ボート生活も、母は文句は言わないまでも、不便なことだらけだった。

狭いし、キッチンは小さいし、洗濯機も掃除機もない。

シャワー室は狭いし、トイレも水洗ではない。

ストーブだってお湯だって、指一本でつけることができるわけでもないし、生活用品も最小限に抑えているので、必要な物も揃っていない。

ネット環境も限られているので、気晴らしに日本の動画なども見ることもできないし、周りはわたし以外みんな英語だ。


母にとってキツイ環境なのは分かっていたので、わたしはどうにもできないことがまたストレスになっていた。


旦那は帰って来ても居場所がないのですぐに外に出て行き、わたしはイライラして「用無し!薄情者!」と泣き叫び、旦那は「子供が産まれたら性格が変わった」などと言うし、毎日言い争いばかりした。


赤ちゃんの世話が一切できない母にも嫌気がさしてきて、わたしはことあるごとに文句を言ったり、酷いことを言ったりした。

そして娘が泣くのは、わたしがボートのディーゼルや薪ストーブの煙を妊娠中にたくさん吸ったから、娘になんらかの障害がでたのかもしれないなどど悩んで泣いたりもした。


それでも母は、わたしに優しい言葉をかけながらも色んな状況に耐えていた。

わたしと旦那が大ゲンカをするたびに心配そうな顔をしながら静かにそこにいた。


季節はもう少しで10月になろうとしていた。

夜や朝方は肌寒くなる。

わたしは薪ストーブをつけるが、火がつくまで長い。

娘は泣くし、その間母は娘を抱いてあやしているが泣きやまず、薪が燃えきらないのかストーブから煙がガンガン出てきてボート中に充満するしで、わたしは娘を連れて外に避難しない母にイラっとして酷い言葉を一気に投げつけてしまった。


そして少しして母は「外の空気を吸いに行く」と言っていなくなってしまった。


それからすぐに旦那が帰って来た。


その時わたしはギャンギャン泣く娘の横で子供のように泣きじゃくっていた。

旦那に、「お母さんに酷いことを言ったら出て行った」と言うと、旦那はすぐに外に飛び出して母を探しに行ってしまった。


わたしは自分のことが嫌で嫌で仕方がなかった。

ボート生活全てを責めた。


そしてわたしもボロボロのまま娘を抱いて母を探しに行こうと外に出ると、母が旦那に手を引かれて帰って来た。


旦那はわたしを少し責めたが、ため息を吐いて何かを諦めたように黙って外に出て行ってしまった。


わたしは母に何も言えなかった。

顔さえも見れなかった。

なぜだかわからないが、心の中で「ごめん」と繰り返すだけで言葉にならない。


母はわたしにとって一番の理解者で、どんな時もどんな状況でもわたしは母に素直に色んなことを話してきた。

わたしが世界で一番心を許せる存在なのだ。


そんな大好きなお母さんをわたしはすごく傷つけている。


母は無理やり笑顔を作りながら「一人でちょっと出るのも悪くないわねえ」とボソって言ってから、夕食を作り始めた。


ここが日本なら、ここが実家なら。

いくら娘が泣いたって、旦那は外に出なくてもいいし、父がいて、弟夫婦がいて。

母の使い慣れた台所と、母がゆっくりと休めるベットがあって、日本のテレビを見ながら気晴らしをして。

ゆっくりお風呂に浸かって、もう少しだけでも長く眠れたら。

それだけで本当に幸せなのに。


母は残りの2週間の滞在が、永遠に続くのではないかと思うぐらい長く感じていただろう。


わたしはその日、母と一言も口をきけないままでいた。

自分がまったく違う自分になったようで訳が分からなかった。


大好きな母が、すごく遠い誰かに見えて悲しくなった。


ボート生活での子育てが始まって1ヶ月経とうとしていた。

わたしたちがNAの善意で借りていた停滞場所も期限が過ぎるので、ボートをまたコミュニティーの場所に戻すことになった。


コミュニティーの仲間たちはいつもと変わらず、川辺で呑んだくれて騒いでばかりだが、わたしたちがボートを停めるのを手伝ってくれたり、娘を見に来てくれたりと仲間意識は強い。


生真面目な母は、川辺で寝そべったり座り込んで雑談している仲間たちに深々と頭を下げ、「娘がいつもお世話になっています」と丁寧に日本語で挨拶し、お土産に買ってきた扇子やタオルなどを差し出している。

ホームレスなみの身なりの仲間たちもびっくりして立ち上がり、なんだか一緒にお辞儀をしている。

なんなんだか、一体......


わたしの状態といえば、体力的にも精神的にも悪化していくだけだった。


旦那とは出会ってから今まで、こんなにケンカしたことはなかった。


母はわたしたちの怒鳴り声と娘の泣き叫ぶ声ですっかり滅入ってしまい、人一倍おとなしいのに、更に無口になってしまった。


これでコミュニティーに移動して、電気も水も制限される生活にはムリがあった。


そこで旦那は育児休暇を1週間早めに取って、皆で彼の実家に行くことにした。

母もわたしたちの結婚式以来旦那の両親に会っていなかったし、旦那の両親にも孫を見せてあげたかった。


せっかく母が日本から来てくれているのだから、「途中で湖水地方にでも寄って一泊して行こうか」と話していると、貧乏夫婦のわたしたちに気を使ってか、母が「全額負担するから好きなだけゆっくりしなさい」と言ってくれた。


車で6時間の道のり。

娘はとにかく泣き続けた。


湖水地方も素晴らしかったが、せっかく旅行に来たのに、わたしは気が立ってイライラしてばかりで、一日中旦那とケンカばかりして、母のこともほとんど無視し続けた。


心配ばかりかけて旅費さえ負担してもらっているのに、素直に母に接することさえできないわたし......


そのまま義理の両親に会いに行き、義母は母をとても気遣ってくれた。


わたしは機嫌が悪いのを隠していたので、すごく疲れてしまった。

それでも義理の母が、孫が多い分慣れているようで、娘の面倒をよくみてくれたし、ゆっくりとお風呂に浸かったりできたので、皆の気分は少し楽になったようだった。


母が帰国する数日前にボートに戻り、またボート生活が続く。


母は水を節約しながら洗い物をして、ギリギリまでシャワーを浴びるのをためらい、顔もメイク落としで拭くだけなどして、本当に精一杯わたしたちの生活を尊重してくれた。

そして、これでもかと言うぐらいわたしの大好物をたくさん作ってくれた。


母の滞在中、彼女のストレス解消は週に一度旦那に連れて行ってもらうスーパーでの買い物と、日本食品店での買い物だったようだ。

その度に週に一回発行される日本人用の無料情報誌をもらってきて、丁寧に目を通していた。

そして、毎日のように娘が寝入った顔を本当に愛おしそうに、いつまでも見ていた。


母が帰ってしまう。


わたしは色んなことを後悔した。

そしてそれを埋めるために何を母にしてあげればいいのか、さっぱりわからなかった。


それなのに、わたしは母が帰る日の朝ですら、泣き続ける娘のあやし方が乱暴だと母を責めて困らせた。

実際、ちょっと揺らしていただけなのに、わたしは娘に関することは何もかも心配で不安だったのだ。今思えば、かなり過剰だったと思う。


空港に着き、いよいよ母ともお別れだという時に、わたしはやっと母に「酷いことをいっぱい言って、旦那とケンカばかりして、心配させてごめん」と初めて誤った。

母は「普通の人が体験できないような経験をして、孫に会え、行ってみたかった湖水地方にも行き、旦那の兄弟や両親達に会えて本当に良かった、みんなにはたくさん迷惑をかけただろうけど、来て良かった」と言った。


わたしはなぜだか、絶対に泣かないようにした。

本当はすごく泣きたかったのに、一生懸命に堪えた。


旦那は別れ際に母にハグをして、「サンキュー、体に気をつけて」と、ゆっくり何度か繰り返した。


娘はこんな時ばかり、わたしの腕の中でよく眠っている。


旦那は、わたしと母がイギリス人たちがするように、キスやハグさえし合わないことにヤキモキしているようだった。

毎回、わたしが家族に会ったときも、別れる時も、なんでいっぱいハグをしないのか、と不思議がる旦那......


旦那には説明してもわからないのだが、わたしたちはハグをしなくてもキスを交わさなくても、家族の絆は変わらないのだと分かっているのだ。

たとえ、こんな風にぎこちなく別れる時でも。


母がセキュリティーチェックの入り口に向かって行く。


成田空港には弟が迎えに行くことになっていたので安心だが、わたしはギリギリまで母が無事に搭乗口までたどり着き、日本行きの飛行機に乗れるか心配した。


母は「大丈夫、大丈夫、あんたこそこれから大変なんだから、しっかりしなさい」と言ってから、静かにゲートの中に入って行く。


姿が見えなくなる直前に母は、何を思ったかこちらを振り向き、わたしはすぐそこにいるのに、大きく片手を振りながら「ありがとうー!」と言った。


そしてそのまま中に入って行ってしまった。


涙がボロボロとこぼれ出た。

わたしは母に色んなことをしてもらい、「ありがとう」さえ言っていなかったのだ。

旦那ですら「サンキュー」って言っていたではないか。


どんなにたくさんの「ごめんなさい」よりも、わたしが母に言わなければいけなかったことは、たった一言「ありがとう」だったのだ。


帰りの車の中で、わたしは声を出して泣き続けた。

旦那は娘がおとなしいと思ったら次はわたしかと、どうでもいいことを言った。


母が帰ってしまった。


次に会う時は、もっともっと母を大事にしようと誓った。


そして、今度こそはちゃんと「ありがとう」を言いたいと思った。




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