有名人とトウモロコシ
2010年8月。
旦那の職場は丸一ヶ月夏休みになるので、わたしもそれに合わせて早めの産休を取ることにした。
子供が生まれる前にボートでテムズ川を下りながら、まだ行ったことのないウィンザー城まで3週間のクルーズに出る計画を立てた。
旦那と二人きりで、のんびりと観光気分でイギリスの町を周る予定が、Wと何隻かのボートも一緒に来ることになった。
なんだかいつものことなので慣れてしまったが、ボートを購入してからの3年目、その間旦那と二人きりでゆっくりとボートの旅をしたことってあったっけ、と思ってしまった。
ハンプトンコートの水門を抜け、骨董品のマーケットで有名なサンブリーという町を通った。
一度サンブリーに停泊したことはあったが、そこから先にはまだ行ったことがなかった。
少し行くとウォルトン オン テムズという町にたどり着いた。
わたしたちはそこでNAというボート仲間と落ち合い、その日はそこに停泊することにした。
NAは60代で、数年前に喉頭癌の手術で声帯を失ってから、喉に人口声帯を付けている。
喋るたびに喉についているボタンを押さなければ声を発することはできない。
NAはスコットランド人で自分のカナルボートにスコットランドの国旗を掲げている。
ボート生活者のトレードマークのような、いつ洗ったかわからないボサボサの髪で、いつもパイントグラスに入ったビールを持っていた。
そしてこれもまたボート生活者の象徴のように犬を飼っていた。
年老いた黒い雑種だった。
彼は口は相当悪いが、かなりいい人だった。
ボート生活を始めたばかりの頃、わたしたちにお金が無くて、食べるのもやっとだと知ったときは、一番に市場から野菜などを調達して持ってきてくれた。
それからは、わたしの顔を見るたびにトウモロコシやらジャガイモやらを無造作に渡してくるようになった。
一度お礼に旦那が、彼の行きつけのパブに行って一杯ごちそうしようとしたが、頑固として「自分で払う!」と言い、ついには旦那の分まで払ってしまったのだ。
彼の頭の中では、わたしたちは貧乏人という観念が出来上がってしまっているらしかった。
今回もなんだか野菜とジャムなどをもらった。
そしてNAはトウモロコシを焼いてくれて、わたしにしきりに「食え!」というので、ボート仲間たちが呑んだくれている横でトウモロコシばかりかじっていた。
そのときはもちろん、未来のことは分からないので、ウィンザーからの帰りにとんでもないことが起きて、彼にとてもお世話になってしまうことなどとは思ってもいなかったのだ。
夕方になって、ボート仲間たちはNAの行きつけのパブに行くことになったが、わたしと旦那は町に繰り出すことにした。
食料なども調達したかったし、ウォルトンの町も見てみたかった。
町の中は今までいたところとあまり変わらなかったが、旦那が「この辺りは有名人がたくさん住んでいると聞いたことがある」と言うので、お金持ちの家を見に行こう、ということになった。
よしっ!と歩き出したものの、住宅街の真ん中で、どうやってお金持ちの家を探すんだ?
なんだか分からないが景色も悪くないので歩いていると、いたっ!有名人発見!
っていうか、何やら有名なスポーツ選手らしく、わたしは誰だかさっぱりわからないのに、旦那が1人で興奮している。
見た感じ、普通にパブなんかにいそうなおじさんにしか見えない。
何がすごいのか、さっぱり分からない。
旦那はよりにもよって通りすがりに「ハロー!」と挨拶をして、「いつも応援してるよ!」と話しかけたではないか!?
わたし、びっくり!
そして旦那は有名人に怪訝な顔をされてムシされてしまったのだ......
そりゃあ、どう見ても貧乏人丸出しの小汚い格好の旦那とノーメイクのアジアのおばさんに、日焼けしてイケイケの有名人とじゃ大きな差がありすぎるもの。
まあ、有名人も少しはニコッとしてくれてたらいいものを...... 「ちょっとあれじゃあ人生楽しくないだろうなあ」とわたしが思っていると、旦那、相当ショックを受けている。
「なんだ、あいつ!もう絶対に応援してやらない!」と今度は怒り始めた......
結局、つまらなくなって、金持ちの家を見ることも無く、わたしと旦那はボートに戻ることにした。
途中、ボート仲間たちがパブから出てきたところに落ち合った。
みんな酔っ払っていてちょっとウザったい。
場所が変わっても状況変わらず......
怒り心頭に発していた旦那は、仲間たちに先ほどの出来事を話し、笑われている。
わたしは疲れたので早めに寝ることにしようと思っていると、NAが何か言っているではないか。
なんだろうと聞いてみると、わたしがお腹を空かせていると思ったらしく、「ボートにまだ焼きトウモロコシがあるからそれを食べろ」と言うのだ。
わっ!まただ!
NAがとても無邪気に勧めるので、わたしはまたしてもトウモロコシを食べるはめになってしまったのだった。
翌朝、わたしたちは次の目的地を目指して出発した。
わたしが初めて訪れた町、ウォルトン オン テムズの思い出はトウモロコシと愛想の悪い有名人という変なものになった。
とにかくNAは、わたしのことを思っていてくれたのだから、礼を言って挨拶してから出よう、と思ったら彼もボートにエンジンをかけていた。
「エンジンで電気でも充電しているの?」と聞くと、「一緒にウィンザーまで行くんだ」と言った。
ああ、そうなんだ。
仲間がまた増えたんだね......
わたしは彼に「楽しくなるね...... ははは...... 」と笑いかけると、NAは「オーブンにガーリックブレットが入っているから食え」と言った。
朝からガーリックブレットですか......
と言うことは、今日はガーリックブレットの日なんですね......
わたしたち全てのボートが一斉に動き出した。
静かに流れていたテムズ川が目覚めたかのように波打った。
夏の日差しの中、仲間たちとクルーズに出る。
まあ、悪くない。
後ろを振り向くとNAの操縦するボートが見えた。
青空と同じ色の、青と白のスコットランドの国旗が誇らしく揺れていた。