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Aの作戦

6月になり本格的に暖かくなってきた。

日がとても長くなり、人々は毎日のように長い一日を楽しむようになった。


テムズ川は太陽の光に反射されてキラキラと輝き、春に咲いた花が緑になり、暖かい風の中で揺れていた。


わたしのツワリもすっかり消えて、嘘のように晴れやかな気分になった。

お腹も少しだけ大きくなってきたのに、気分がいいというだけで、体も身軽になった気がして、ボートから岸にジャンプで飛び降りたり、キックボードで坂道を下ったりして、旦那に何度も怒られた。


MAちゃんはこの月で1歳になろうとしていた。

Aは彼女のために行きつけのパブで誕生会を計画していた。

その話をするために、AがMAちゃんを連れてやってきたのに、話はまったく違う方向に行ってしまった。


Aが言うには、電気屋のSのロシア人の元奥さんは、娘を連れてボートを飛び出してからすぐにSを訴えて、娘の親権を勝ち取り、養育費までもらい、国が援助してくれた家に住んでいるのだという。

なので、Aも同じように申し込んだら、家を与えてもらえるかもしれないと言うのだ。


わたしもそれはいい考えだと思った。


どう考えても、今の状況はAにもMAちゃんにも、そしてWにも良くない。

せっかく素晴らしい季節の真っ只中にいるのに、Aだけが幸せそうじゃないんだから、こうしていたら本当にもったいない。


しばらくしてAが、今にも泣きそうな様相でやって来た。

役所に住宅補助の申し込みに行って断られたと言うのだ。


Aは産休手当が終了したので、ナニーの仕事を再開していた。

保育費が異常に高いので、小さいMAちゃんを一緒に連れて行って仕事をしていた。


役所の人が言うには、Aは仕事をしていて収入があったし、養育費も払う必要がない、そして、いくらボート暮らしであろうとも、住むところがあるので住宅補助は受けられないのだそうだ。


Aがいくら、「狭くて水もろくに使えず、料理もほとんどできない環境にいる」と訴えても、「そんなことはあり得ないし、第一今までやってこれたんだから、これからもできるはず」と言われたのだと言う。


確かにAの状況を目の当たりにしなければ、どんな暮らしをしているのか想像もつかないだろう。

Wが頻繁に水を汲んでくれたり、キッチンスペースを使いやすく改装でもしてくれたりなどして、もう少し生活できる環境にしてくれたらいいのだが、彼は究極の面倒くさがりなので、ボートは荒んでいくばかりだった。


それでも子育てをしながら仕事に行くA。

どんなにがんばっても、子供とWにお金は吸い取られていく。

それでも家事も仕事もしなければいけない。

役所に援助を断られ泣きたくなる気持ちも分かる。


それでも、とりあえず住宅補助の空き待ちのリストに入れてはもらったが、家がなかったり、仕事が見つからなかったりして本当に困っていると役所が判断した人たちが優先なので、その順番はなかなか回って来そうもなかった。


Aは、どうしてSのロシア人の元妻が住宅補助をしてもらって、イギリス人である自分が自国にいながらなんの援助ももらえないのか、Sの元妻は仕事もしたことがないのに、なぜ仕事をして税金を納めている自分がなにもしてもらえないのかと、文句を言った。


うーん。ごもっともです。

でも、ロシアもなかなか大変な国だし、いくら離婚してもSたちの間には子供がいて、Sだって会う権利はあるだろうし、Sの元妻にロシアに帰って下さいと言うわけにはいかない。


いくらわたしが説明したところで、Aの訴えは変わらない。

彼女は懲りずに役所に電話したり、相談しに行ったりを繰り返してはわたしのところにやってきて、同じようなことを何度も嘆いた。


その間、Wは相変わらずで、好き勝手なことばかりしてAを怒らせてばかりいた。


お役所さんよ、どうかAにも家を与えてくださいな。

そうじゃなかったら、この清々しい季節にわたしは、毎日Aの小言を聞く羽目になるんだよ......


ボート仲間たちが毎日本当に楽しそうに生きている中で、Aだけは少しも笑顔を見せずに、文句ばかり言って過ごしていた。


そしてついに、我慢の限界に達したAは、すごいことを思いついたのだ。


8月になろうとしていた。

妊婦は暑さに弱いと聞いていたが、川沿いは涼しく、わたしたちのボートは木陰に停めてあったので、わたしは寒いぐらいで、何度か薪ストーブをつけようかと思うぐらいの日もあった。


外では仕事をしているのかどうなのか、いつもボート仲間たちがたむろしている。

ボートに住んでいるというよりは、外で暮らしているんじゃないか? と思うぐらい、食事も昼寝も、歯磨きさえも皆外でしている。


「皆さんのんきで平和だなあ」と思いながら、あれっと思った。

ここ2日ほどWを見ていない。

「そう言えばAも愚痴を言いに来なくなったなあ。旅行にでも行ってるんだろうか?」と思っていると、Aがやって来た。


Aは妙に機嫌が良くて、これから役所の人がボートを見に来るから、何やらわたしに協力して欲しいのだと言う。


聞くと、「役所にWがAを追い出すために暴力を振るって、ボートを放棄していなくなった」と訴えたのだと言う。

もちろんWが暴力など振るうはずもなく作り話なのだが、Aは「Wがいなくなってボートのことは分からないので、水も電気も使えないし、子供と暮らせる環境ではないので、ボートに住むことは無理で、Wが帰って来たらまた暴力を振るわれるから、今すぐにでも住むところが必要」と言ったのだそうだ。


WはAに協力して行方をくらましているので、もし役所の人が何か言ってきたら、「ここ数日間見ていない、と言って」とAに頼まれたのだ。


おお!ついに強行突破作戦でいくか。


まあ、ズルいやり方だけど、水や電気を自由に使えないのは本当のことだ。


それにしてもWはよくこの方法に賛成したものだなあ。


わたしが、「これでWが警察のお世話になったり、彼の今後に響かないの?」と聞くと、Aは「わたしが訴えたり、現行犯で捕まらなければ、Wには何も迷惑はかからないから」と言った。

そして更に「わたしが家に住みだしたら、Wは風呂に入りに来たり洗濯なんかもできるし、Aと子供のうるさい声を聞かなくても良くて、自由なボート生活を取り戻せるから、喜んで協力してくれたの」と言うのだ。


なんだかすごいなあ。


そしてAは極め付けにわたしにも「家に住んだら、好きな時にお風呂に入りに来ていいのよ」と言った。


むむむ。

わたしもこれから子供を持つ身、水は今よりももっと辛抱して使わなければいけない。

お風呂のお誘いはなんだかありがたい。

っていうか、本当にどんな生活をしているんか......


「まあ、Wを2日ほど見かけていないのは本当だし、嘘ではないよなあ」と、協力することにした。


その日1日特に何も起きず、Aが言っていた役所の人は結局来なかったのだが、翌朝役所の人から連絡があり、Aは仮の住まいを与えられることになった。

キッチン、トイレとバスルームが共同の短期滞在型のアパートで、とりあえずダブルサイズの部屋に入れることになった。

ここで住宅の空きがでるのを待つことになるのだと言う。


Aの根性で、とにかくボート生活脱出成功だ。


Aのアパートは色んな事情で家を追われた人たちが住んでいて、全員がイギリス人だった。


国もちゃんと自国民の面倒を見ているではないか。


そしてWは、大喜びでそこに通うことになった。

通うと言うより、Aがいつも車で送り迎えしてくれるので、Wは王様みたいにしていればいいのだ。

水汲みの心配をしなくても、エンジンの調子が悪くても、お風呂にもはいれるし、洗濯も汚いのを脱ぎ捨てておいたらAがアイロンまでやってくれる。狭い部屋に飽きたら、晴れて1人になったボートで好き勝手に暮らせるのだ。


まさに天国のような暮らしだ。


と言うことで、WとAにまた笑顔が戻ったのだった。


ボート生活がまた平和になったと思ったと同時に、わたしは今度は自分たちのことを考えていかなければと思った。

あと2ヶ月ほどで、この狭くて不便なボート生活の中に赤ちゃんがやってくるのだ。


大変なこともあるだろうが、今から準備して望めばなんとかやっていける。


実際にAは、出産後1年間ここまでやってこれたのだ。

しかも、ボートで育って大きくなった人たちはたくさんいる。


わたしはどんなに大変な暮らしも、待ちに待った子供が産まれてくるんだと思うと乗り越えて行けると思った。


Aを見ていると、根性と努力、少しのズルさがあれば、どんな状況でも生きていけるような気がして、なんだか勇気が湧いてきた。


と言っても、このズルさっていうのはすごく簡単そうで難しい。

少しでもズルい人間になれたなら、もっともっと楽に生きられるはずなのに......


自分の子供には、どんなふうに教えたらいいのだろう。

良いことと良くないことの区別って微妙だなあと、つくづく考えさせられた。

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