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Wに泣かされる女たち

環境が人に与える影響ってすごいんだなあと、つくづく思った。


テムズ川に来てから旦那はオシャレの欠片もないぐらい、ラフなオッサンに変身して、ビールの量も増えた。

カナルに出て、オシャレさんたちから影響を受けて小綺麗になったと思っていたのに......


カナルでの、のんびりしていた暮らしとは正反対に、毎日パーティーの中で暮らしているのかと思うぐらい賑やかだし、常に誰かがボートをノックしたりして、出入りも激しかった。


カナルに比べてテムズ川は揺れが激しく、わたしはツワリが悪化して、毎日船酔い気分で、食べるどころか、話しさえできなくなった。


ある休日、朝から死にそうに吐気がするので、ベットの中で動けないでいると、Wがノックしてわたしに「コーヒーはあるか!」と叫んでいる。

わたしは布団に潜って、いないふりをした。


Wは、「中にいるのは分かってるんだ!起きろー!」と言いながらボートを揺らしてきたので、わたしはもうガマンできなくてなって、とりあえずドアからインスタントコーヒーを投げてやると、今度は「お湯を沸かせ!」とまたボートを揺らしてきた。


ダメだ、吐きそう......


わたしはヨロヨロしながらWに、「お湯を沸かしてあげるから、ボートを揺らすのはやめて」と頼んだ。

すると、なぜだか泣けてきた。

妊娠してからホルモンのせいなのか、小さいことで泣きたくなってしまう。そこにツワリも手伝って、精神状態がすごく不安定だ。


わたしがいきなり泣き出したので、Wはビックリしている。

そこにベビーカーを押しているAが通りかかって、どうしたのかと聞いてきた。


わたしはまさか、「Wがボートを揺らして気分が悪くなったから泣いた」とは言えず、「大丈夫」と言うが、Aは普段言いたかったことがたまっていたのか、Wに聞こえよがしにわたしに言った。


「分かる。ホルモンのせいで泣きたくなるのよね。しかも周りは朝から酔っ払いばかりだし、毎日うるさいし、仕事して家事もしてるのに、男たちは酒飲んで騒ぐだけだし、泣きたくもなるわよねー」


Wは聞いてるのか聞いてないのか、さっさとその場を離れてしまったのに、Aは話し始めたら止まらなくなったのか、Wや彼女の生活の文句を言うと、今度は彼女がポロポロと涙を流し始めた。


えーっ! 一体どうなってるのー!?


あたし、Aが大変なのはよくわかるけど、もう気持ち悪くて横になりたいんだけど......

本当に立っていられない。


夕方になって旦那が帰ってくると、Wが「自分のボートで、みんなでパブに行こう!」と言い出した。

川沿いのパブでジャズのライブをやるのだと言う。


わたしも気分転換に行きたいと思い、旦那は疲れたらいつでも休めるようにと、わたしたちのボートごと一緒に行くことになった。


暖かい夜だったからか、パブは中も外も大賑わい。

ボート仲間たちはビールを買ってきてボートに座ったり、川沿いでいつものように遊んでいる。


わたしはジュースだけだが、なんだか気持ちがいい。


まもなくジャズの生演奏が始まった。名前も聞いたことのないバンドだが、すごく上手で、ツワリも吹っ飛ぶぐらいに楽しい気分になった。

旦那と本当に久しぶりに、少しだけ踊った。


1時間ほどして、わたしは疲れてきたのでそのままボートに戻ることにした。「自分の家がパブの真ん前にあるなんて、なんて便利だろう」と思いながら。


わたしが中に入ろうとすると、テンションが上がりに上がったWが自分のボートからMAちゃんを抱きかかえてきて、「娘にジャズを聴かせるんだ!」と言って、パブの中に連れて行こうとしていた。


「みんなー! 見ろー! オレの娘だ! ファンキーガールだあ!」と叫んでMAちゃんを掲げている。

MAちゃんはギャン泣きだ。


その後をAが追いかけていて、「彼女は寝なきゃいけないのよ!高音も耳に良くないからやめて!」と言っているが、Wは聞く耳なし。


さすがのボート仲間たちも「やめろ!」と言っている。


旦那が見るに見かねて、WからMAちゃんを奪うと、Aに渡した。


Aは泣いている。

「みんながパブで楽しんでいるときに、わたしはうるさい中でこの子を寝せなきゃいけないし、いつもひとりぼっちでこの子とボートにいるのよ。それを彼に言ったら、いきなりこんなことしだして。わたしは一体どうしたらいいの? ただ黙って我慢しなきゃいけないの?」


ああ、そうか。

わたしが旦那とライブを楽しんでいたときに、彼女はそんな思いをしていたんだ。


確かにW、小さい子供を乗せたままここに来るのはどうかと思うよ......


わたしもAにつられて泣けてきた。

普段はこんなことじゃ絶対に泣かないのに、Aと一緒にMEちゃんを抱きしめながら泣く......


なんだか、すごい光景だ......


その横で、Wと旦那は大声で言い争いをしている。

パブの外は人々が生演奏どころか、この狂ったやりとりを、興味深々で見ている。


かわいそうなジャズ演奏者たち......

Wのせいで客はみんな外だよ......


さすがのボート仲間たちも呆れて「帰る」と言い出した。

旦那も仲間たちをボートに乗せてさっさと引き上げる。


Wは「朝までここにいるんだ!」と強情を張り、わたしはAとMAちゃんを残して行かなければいけなかった。

Aは「大丈夫」と言って、ボートの中に入って行ったが、Wはまた1人でパブに戻った。


そして、その後Wは1人で暴れて、出入り禁止にされてしまった。


帰り際、旦那はボートを動かしながら言った。

「Wも、狭い空間で毎日子供とAが泣く声を聞いてストレスがたまってるんだろうけど、今日はやり過ぎだったなあ。Wは酒を飲んで暴れたりはするけど、女、子供には酷いことするヤツじゃなかったんだけどなあ」


そして旦那はわたしに聞いた。

「なんで、お前まで一緒に泣いたんだ?」


わたしは「泣いたのはわたしではなくて、ホルモンなんだよねえ」と言うと、旦那は「は?」と言った。


「妊娠中と出産後は、ホルモンのバランスが崩れて感情的になったり、泣きたくなったりするんだって。わたしにはどうしようもできないことなんだよ」


わたしが言うと、旦那は「冗談だろう。やめてくれよ」と言った。


いえいえ、冗談ではありません。

わたしだって、いつどうなるか自分でも不安なんだから。


「ホルモンだけじゃなくて、環境が変わったら人も変わるんだよ。WとAみたいに。子供が産まれたら、わたしたちも人のことは何も言えなくなるかもよ」


わたしが言うと、旦那は「オレは絶対に変わらない!」と言い切った。


わたしは旦那の伸びきったTシャツと、汚れた靴とジーンズを見て吹き出しそうになった。


旦那よ、環境が変わって一番変わったのは、あんただよ......


Wがいないボートコミュニティーは静かだった。


MAちゃんのことを考えた。

彼女はもう寝ただろうか?

はちゃめちゃな父親を持った小さなボートで暮らす女の子が、環境に左右されずに、スクスクと元気に育って欲しいと思ったら、なんだかまた泣けてきた。


なんだかなあ、もう、わたしもAも、そしてMAちゃんも、本当に朝から晩までWに泣かされた1日だった。

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